カテゴリー別アーカイブ: 美術

2007.01.20

豆乳、にがり、ココアに納豆

どうやら納豆を食べても番組で紹介されたほどのダイエット効果はないらしいですね。
まぁ、僕は関東に住んでいることもあって、納豆はよく食べているけれど、ダイエット効果の程はよくわからない。というか、継続的に食べている割にはどんどん体が大きくなっていっているんだけど、、、。

さて、納豆によるダイエット効果については置いといて、この一極集中型ともいうべき状況はあらためて「どうなってるの~」なんて思う。
これまでにも、豆乳、にがり、ココア、、、なんていろいろあったけど、その都度、商品が店頭から無くなっていったものね。でも、そんな豆乳やにがりたちもブームが過ぎ去った今は何事もなかったかのようにちゃんと商品棚に鎮座している。
で、そんな状況を見ていると「こういうのはアート業界にも言える事だよな」なんて思う。

よくあるケースとすれば、ある作家の作品がテーマが違う展覧会なのに同じように扱われ展示されていたり、単純に露出度が高い、なんてこともある。
まぁ、今回の納豆のように顕著なブームということではないけれど、それに近い状態はあるわけで、かつての豆乳やにがりだった人たちにとっては、まったくやりにくい状況だと思う。

でも、そんな状況に済いがあるとすれば、今でも変わらず必要があって豆乳やにがりを購入している人がいるわけだから、商品棚に陳列されていれば、まだ捨てたもんじゃないな、とは思う。
そして、今回の納豆のように「納豆の味を楽しむ」のではなく「ほかの目的のために消費されていく」のを見ていると、今回の納豆のような立場にいる人たちは、何かほかの目的のために消費されているかもしれないし、もしそうであれば、自分の作品が鑑賞されずにそのように消費されていることに気づいた時はちょっとつらいだろうな、なんて思ったりもする。

まぁ、作家が有名になり作品が売れていくということはそういう事を含んでいるんだろうと思うけれど、このままマイナーであり続けるだろう僕のような人の場合、今回の納豆ブームやダイエット効果なんて気にしていたらやっていられないね、なんて思うわけです。
だって、これからも「納豆って美味しいね」なんて言いながら食べていくだろうし、納豆のダイエット効果なんてことよりも、普通に納豆が食べられなくなる状況の方が僕にとっては問題なんだから。

2007.01.19

岐阜生まれの人たち

余談だけど、何となく高田渡のことを調べていたら岐阜生まれであることを知る。

そういえば、画家の熊谷守一も岐阜だったよな。高田渡と熊谷守一。何だか妙に共通点があるような気がする。作品から受ける印象だったり。もちろんその人柄も。
彼らの作品はユーモアを忘れずに、時には微笑ましくありながら、でも、しっかり批評的な視線も盛り込んでいてね。それが妙に共通点があるように思わせる要因かな。

どちらにせよ、彼らの作品からは決してマッチョな感じを受けないし、むしろひょうひょうとしている感じが僕には好感が持てるわけで、できることなら自分の作品もそのようにあったらな、なんても思うわけです。
まぁ、目指してできるもんじゃないんだけど、、、。

2007.01.16

ちょいと思う事など

何でこんなこと思い出したのかわからないけれど、僕の記憶が正しければ、細野晴臣が何かの本やテレビ番組で「コンピューターが進歩したこの時代だからこそ、今はアナログなんだよ」とか「サンプリングなどの技術が向上するいうことは、アナログの音に近づくということだから、結果、アナログの音との相性はよくなる」と言っていたように思う。

何だか納得、、、。

そして、そんな細野晴臣の発言をそのままアートなんぞに当てはめて考えてみるといろいろと思うところが出てくるし、ロックやテクノを経験し、アンビエントを経由した今の細野晴臣の楽曲を聴いていると、そのあたりが体現されていて興味深い。

だけど、そんな風に細野晴臣の発言や楽曲からいろいろ考えている自分がいることに気づくと「そういえば、最近はアートよりも他のジャンルへの興味が大きくなったな」なんて思ったりする。
でも、それは僕がアートにあまり魅力を感じていないという事の裏返しでもあるかもしれないし、僕の作品もそういう風に魅力がないものとして受け取られているかもしれないな、なんて思ったりもするわけです。

2007.01.14

花束/若林奮

昨日見た『花束/若林奮』展について思うところがあったので、、、。

これは私見でしかないけれど、ギャラリーを出る前に展示しているドローイングをひと通り眺めていたら、ふとある事が頭をよぎった。
「これってもしかしたら『緑の森の一角獣座』と関係があるのかしら」なんて。サインも1996年になっているし、時期的には重なっているよな。

そう思いながら、再度、ドローイングを眺めていると、そこに描かれている棒状のものが『daisy』という彫刻作品に見えてくる。そして、あるドローイングでは等間隔に描かれた『daisy』を結ぶ事によって出来る線が結界になっているようにも見える。
そこで、ほかのドローイングもあらてためて眺めてみると、『daisy』らしきその棒状のものが数本の束になって点在しているものもあれば、ひとつの塊となって地中に埋まっているように見えるものもある。

もし、その棒状のものが『daisy』であるとして、もう少し想像を膨らませながらドローイングに記された番号を頼りに順に眺めてみると、最初のドローイングはまだ森に囲まれている『緑の森の一角獣座』の場所を指示し守るための、『daisy』による結界が描かれているようでもあり、最後のドローイングは、処分場のゴミに埋もれながらもその上部のみ見せる『daisy』の塊、つまり「ヒナギクの花束」が描かれているようにも見える。

うぅ~ん、僕は若林奮の研究者じゃないから真意の程は分からないけれど、そうやっていろいろ考えながらドローイングを眺めるのもまた面白いですね。
でも、一方ではそんな事関係なしに漠然とドローイングを見ていても楽しめちゃうもんだから、やっぱり作品を見るのはやめられないね、なんて事も思うわけです。

2006.12.17

されど変わるのはいつも他人

こんなこと僕が考えても仕方がないことなんだけど、有名になるってどういうことなんだろう、なんて考えてみる。

例えば、質のよい作品がよい評価を受けて有名になることは当然として、よく分からないけれど作品は大して変わっちゃいないのに周りの評価が変わって有名になる、なんて事もあるんじゃないかと思う。
まぁ、質がよいってどういう事だ、っていうこともあるんだけど、、、。

そんでもって、仮に僕が有名になるとすればあきらかに後者の方だと思う。
だって、ここまで大して作品も変化してないし、今後もそんな感じにゆっくりとやっていくんだろうな、なんて思うからね。
でも、仮に僕のような作品が有名になることがあるとすれば、きっとそこには落とし穴があるかもしれない、なんて思う。
つまり、それは有名になってしまったことで自らの作品がとても良くなったと感じてしまうという勘違いなんだけど。

まぁ、僕の作品が有名になるなんてことはないだろうし、そんな事考えている暇があったら作品をつくった方がいいよ、なんて自分でツッコミを入れたくなるけれど、でも、有名になることに限らず、生活の面でもそういうことがあったりするからね。
前と同じ事をやっているのに、何だか急に周りの目が冷たくなったり、、、。もしかしたら何か悪い事でもしちゃったかな、なんて考えちゃうよ。

マルセル・デュシャンの墓碑銘は「されど、死ぬのはいつも他人」のようだけれど、それをもじって言えば「されど、変わるのはいつも他人」なんて言えなくもないんじゃない、なんて思う今日この頃です。