月別アーカイブ: 2006年11月

2006.11.30

寝付きの悪い人はご用心

ネットでニュースをチェックしていたら「寝付き悪い人、うつに注意=大規模調査の解析で判明-日大」という記事に目がいく。どうやら「夜寝床に就いてもなかなか眠れない人は、うつの傾向が強い」らしい。

オレ、ヤバいじゃん、、、。

というのも、ここ十何年、夜になって布団に入ってもまったく眠くならない。だからといって昼間に眠くなるわけでもない。眠くなるのはお酒を飲んだ時だけ、、、。やばい。

まぁ、今のところ毎日のように晩酌してるから、いい具合に眠くなっているんだけど、夜中に目が覚めちゃうとそりゃ~もう大変。まったく眠くないんだもの。
そんな時は、布団の中でなんとか寝ようとモジョモジョと、、、覚醒してしまった僕に抵抗です。
それでも駄目な時は仕方なくお酒を飲む。それも燃料みたいな安いお酒。美味しいお酒だとそのまま飲み続けちゃうからね。危険です。

さてと、お酒を飲み続けて眠気を誘うか、飲むのをやめてうつになりやすくなるか。
まっ早い話、お酒を飲まずにちゃんと寝られるように体質改善すればいいだけなんだけど、、、。

おそまつでした。

2006.11.29

吉本新聞

昨日、新聞の夕刊を見ていたら『吉本新聞』なるものが折り込まれていた。
時々変な広告が入っているけど、これはなんでしょ。発行所は吉本新聞社だって。

四面組みの薄いもので、広告の割合が40%ぐらいあるから記事自体は多くないけれど、やっぱりね、お笑い好きとしてはついつい読んじゃう。
内容は時事ネタをつかったり、天気予報をもじって芸能予報としていたり、爆笑、、、とまではいかないけれど、それなりに楽しめるものです。

んでもって、一面の記事には「2016年、夏季オリンピックが東京で開催なら、お笑いを正式種目に申請」だって。
お笑いを「日本を代表する文化的競技」と位置づけ、「ボケとツッコミのペアから繰り出される華麗な技の数々は、必ずや世界のスポーツファンを魅了するだろう」。選考基準は「オモロイこと」ただ一点。
吉本興業の芸人、シベリア文太さんは「世界の大舞台で、自分のスベリ芸がどこまで通用するか挑戦したい。全世界の人から『寒い』と言われ、地球の温暖化防止に少しでもお役に立てば」とコメント。

まぁ、お笑いで温暖化が解消されることはないと思うけれど、でも、思い悩んだときにお笑いを見る事で解消してしまうことは多々ある。その反面、笑った後の静けさで、また思い悩んでしまうこともあるんだけど、、、。
でも、やっぱり僕にとってお笑いは大事なんですね。
吉本的なものに限らず、広く芸能と言われているものが規制されたりするもんなら、まったくつまらないな、なんて思う。
だいたい、辛辣な顔ばかりしてられないもんね。そんな顔ばかりしてたら、大して難しくない事も難しく捉えちゃうよ、なんて思うし。

これはずっと思っていることだけど、自身のつくっている作品も、常にユーモアを持っていたいな、なんて思う。
そして、できることなら自身の作品を笑い飛ばせるくらいの、お笑いに通じる批評精神も持ち合わせていたいな、なんて思ったりもするわけです。

*太字部分は『吉本新聞』からの引用

2006.11.24

新東京タワー

新東京タワーが墨田区に出来るのはもうご存知だと思うけれど、どうやらそのデザインが決定したようです。

うぅ~ん、その地域をここ何年かうろちょろしているだけに「あんなところに、こんなのできちゃうのね」なんて思っちゃう。イメージパースを見てみると、まぁ~凛々しくそそり立っています。新名所にでもなって、地域経済が活性化されればよいのかもしれませんね。

まぁ、必要あって新東京タワーを建設するんだろうけれど、新名所にならなくてもね、僕にとっちゃ~十分楽しめる地域です。
例えば、誰が見てもそう見える、浅草/吾妻橋にある「アサヒビール/スーバードライホール」。
フランスのデザイナー、フィリップ・スタルクさんによるもののようだけど、「炎のオブジェ」と称する屋上の物体は、どう見たってウ○チだよ。

夕方、首都高速6号線を小菅方面に下って行くと、あれが神々しく輝いていてね、炎のオブジェだろうがウ○チだろうがどうでもよくなっちゃう。
そんでもって、吾妻橋を歩いて渡っていると、子供があれ見てお母さんに一言。「ねぇ~、あそこに大きなウ○チがあるよ」だって。作り手側の意思なんて軽く吹き飛ばしちゃうあの発言。ある意味、壮快だね。

新東京タワーがどのような愛称で呼ばれるのか、僕はそちらのほうが気になって仕方ありません。

2006.11.22

痛みのあるところ

このところ新聞やニュースではいじめ問題が取り上げられているけれど、自身のことを思い出してみれば「いじめる/いじめられる」ことは、出口のない入れ子のようなものだったように思う。
ある時は悪ガキと徒党を組み、人の弱みに付け込んでいたかと思えば、学年が変わり進学すればその状況は一変していた。それはコインの表裏のようでもあり、ちょっとしたきっかけで「いじめる/いじめられる」という構造は逆転してしまう。

自身の置かれている状況に対して、何かしらでも対処できる経験を持ち合わせていればよいのだけれど、その経験を持ち合わせていなければ、当然のように逃げ場を失ってしまう。それは管理された社会であればあるほど、そして、無防備にその社会に依存するしかない年齢であればなおさら逃げ場を失ってしまうことだろう。

逃げ場を失いつつも、逆転のさし手があるとすればそれはいかなる事であろうか?
傷つける側に転じる事なのか、あるいは、自身の命を絶つという最後の一手なのだろうか?
そして、子供たちにとって本当の加害者とは誰なのか?

新聞やニュースなどを見ていると、いじめの当事者である子供たちはともかく、いじめられたとする子供たちの親が、被害者として子供たちと同等に扱われている。もちろん、ニュースがそのように扱っているということもあるのだけれど、親である以上、その悲しみや憤り、責任の追求を学校や社会に求めてしまうことは理解できる。
けれども、僕にはその親たちが本当に子供たちと同等の被害者なのだろうか?と、思ってしまう。

つまり、子供たちが参加している地域/社会をその親たちが形成し、導いていく立場にあるのだとすれば、少なくとも親たちについては、加害者/被害者という、単純な構造にはならないと思うからだ。
言い方が悪いかもしれないけれど、直接/間接であれ、その地域/社会を形成している以上、その親たちは加害者としてどこかで加担しているところはなかったのか?その事に対する疑問はないのか?と思ってしまう。

傷つき失った命の痛みに涙し、目に見えている世の中がぼやけてしまう前に、自らが犯していたかもしれないことの痛みについて、僕を含めて、今一度考えてみる必要があるように思う。

2006.11.18

府中に納品

今日は府中市美術館のミュージアムショップに作品を納品しに行く。
といっても、何か新しい作品ができたというわけではなくて、以前『府中ビエンナーレ』でミュージアムショップに展示させてもらった作品『others』を納品しに行った次第。

当時、この作品はポスターとしてショップに飾り、販売もしてもらったんだけど、今回も同様にインテリア兼商品として飾って頂く。当時はちょいと美術館ともめたところもあったけれど、今回はただ作品の納品ですからね、何ももめません。

でも、こうやって飾られているのを見ると、やっぱりこの作品は展示室なんて似合わないね、なんて思っちゃう。
公共の場であれプライベートな場であれ、雑多な場所に置かれてね。もちろん、それを前提につくった作品でもあるから、やっぱり「展示する」というよりは「飾る」と言った方がしっくりくる作品だな、なんて思う。

しかしながら、こんな地味~な作品を飾り販売してくれるミュージアムショップには感謝です。
もし府中市美術館に行く事などあったら、ミュージアムショップにぜひお立寄りくださいませ。