年別アーカイブ: 2006年

2006.12.28

東京シャイネス

20061228

いいですね、東京シャイネス。
彼らの演奏、人によっては古く聞こえるかもしれないけれど、今の僕にはとっても新鮮に映ります。何でなんでしょ。

インタビューの中で浜口茂外也が細野晴臣のリズム感について言っていたけれど、「音がガンガンと大きいのではなくて、小さくてもそれが歩くテンポ」だったり「ちょっと走ったりしているテンポ」で、でも「走り始めたら止まらない。どこまでも行けちゃう気持ちよさ」だったりね。
うぅ~ん、いいですね。

そんでもって、高田蓮のスチール・ギターがこれまたよくて、彼が参加していなかったら東京シャイネスの音はだいぶ変わっていただろうな、なんて思う。

彼は東京シャイネスの事を「プロ意識の強い演奏の部分と、ある部分ではアマチュアリズムで、単純さの音楽を楽しむ姿勢があって、両方あるのが面白い。」「すごくきちんとしたリズムの上で実はゆるくいろいろな事が起きている。」なんて言っていた。

きっとそれはプロフェッショナルな部分だけではこぼれ落ちてしまうものがあって、それを掬いとるものが高田蓮が言うアマチュアリズムの部分であり、ゆるくいろいろな事が起きているのもそれがあるからなんだろうな、なんて思う。
そして、仮に演奏や歌詞を間違ったとしても、それは譜面上での事にすぎないわけで、むしろ間違ったことをきっかけに譜面では見えない部分が見えはじめる、あるいは、音楽が動いていくきっかけになるんだろうな、とも思うわけです。

2006.12.25

ニューアイテム

クリスマスプレゼントじゃないけれど、知人におつまみをもらう。
以前、なとりの貝ひもをもらったけれど、この『無印良品/チーズたらブラックペッパー』も知人の職場で流行っているみたい。
なとりの貝ひもも美味しいけれど、ちょいと今ひとつなのは、一度にあまり食べられない事なんだよね。食べ過ぎるとあごが疲れちゃうし、、、。
その点、このチーズたらは柔らかいし、程よい満足感もある。だから職場でちょっと小腹が空いた時には最適なんでしょうね。
しかしですね、僕の場合、こんなの食べたら仕事になりません。だって、なとりの貝ひも同様にお酒飲みたくなっちゃうんだもん。

2006.12.24

浅草・インド・竹橋

今日も訳あって都心に出たので、お昼に浅草に立ち寄って、よく行くインドカレー屋でランチを食べる。
しかし、ここのナン、前より大きくなったんじゃない?皿からはみ出し過ぎだよ、、、。もしかして、今日がクリスマスだからサービスなの?

だけどいいんだよね、このモチモチ感。カレーも好きだけど何よりナンが好きだから、そんな僕には最適のお店です。
さてと、腹ごしらえもしたし所用も済ませたから、夕方、東京国立近代美術館でやっている『写真の現在3/臨海をめぐる6つの試論』展を見に行く。
う~ん、どうなんだろう、、、。僕にはいまいちピンとこない。何だかコンセプチュアルな側面が全面に出すぎていて、ここで実際に写真を見る意味をあまり感じない。

もちろん、写真にそういう側面があってもいいと思うけれど、こうなるとカタログでテキストを読みながら鑑賞というのでもいいのかもしれないし、展示は補足なのかな、なんて思っちゃう。
常設の写真コーナーにはロバート・フランクとウィリアム・クラインが対峙して展示してあって、古い僕の目にはそちらの方が印象に残る。

ここの常設では、毎回、戦争記録画も気になって見てしまうし、いつも立ち止まって見入ってしまう作品や、その時々で再確認させられる作品もある。そして、そんな会場を抜けた先に『写真の現在3/臨海をめぐる6つの試論』の会場があるとすれば、僕は写真云々といったこととは別に考えてしまう事もある。
まぁ、そのあたりの事はもう少しまとまってから、ここに書いていけたらな、と思う。

2006.12.23

最後は木場で宇和島駅

久しぶりにギャラリーと美術館を巡る。とはいっても、最後には東京都現代美術館でやっている大竹伸郎展が控えているから、そんなに巡れないんだけど、、、。 まずは銀座の資生堂ギャラリーでやっている『素景 -陳若冰 平田五郎 尹熙倉-』展へ。

尹熙倉の作品は久しぶりに見たけれど、やっぱり変な感じがする。今回は四角い物体が膨らみを持ちつつ結構な大きさになっているし、、、。
これは今回見て思ったんだけど、その変な感じは、ひとつにその展示方法にあると思う。
だって、一見、床に置いてあるように見える作品でも、よく見れば壁にへばりついている印象を与えるんだから。でも、その壁に接している面も緩やかなカーブを描いているから、壁からも少し浮いている感じに見えるのね。
例えて言うなら、僕たちが地面から垂直に立つ事で自立しているとすれば、地面ではなく、そこから垂直にそり立つ壁を地面として自立している。そして、その地面である壁からも、寄り添いながら少し浮いている、といった感じ。

もう一つは、実は人がいてざわめいている場所に展示される事を前提にしているんじゃないかなと思わせる事。
その形態のシンプルも手伝って、そこに鎮座しているという印象を与えるけれど、実はとても雑多な関係、例えば人がそこにいることを前提にした空間/状況、を計りながらそこにあるという、その見た目とのギャップ。
そんなことが、たぶん僕に妙な感じを与えているんじゃないかな、と今回の展示を見ていて思う。

さてと、そんな変な感じを抱きながら、次はフタバ画廊へ。知人である早川陽子さんが出品している『2006 FUTABA GALLERY Presents / a lot of … 』展を見る。
ここに限った事ではないけれど、いろんな人がいますね。そして、そのような展示を見ていると思うところや言いたい事も沢山出てくる。でも、そんな愚痴を言ってもね、仕方ありませんから、、、。
さぁ、そんな事はさておいて、次は『大竹伸朗/全景』展へ。

明日が最終日とあって混んでいますね。チケット売り場も並んでいるし、、、。でも、僕はまだよかったみたい。僕が見たあとの会場を振り返ってみれば、そこには人の群れが、、、。

さて、ひと通り見ての感想だけど、この展覧会は作品を見るというより、大竹伸朗を浴びる、といったほうがいいような気がする。だから、シャワー浴びている時に水滴をひとつひとつ見ることなんてないように、これだけの作品が展示してあると見逃してしまった作品、あるいは、見たけれど押し流されてしまった作品も多いような気がする。
しかし『既にそこにあるもの』という著書があるように、全ての作品ではないにしろ、それら作品には何かしらの既視感がつきまとう。そして、それは時に危うさを持って現れたりもする。
でも、建物の屋上に設置された「宇和島駅」のネオンサインには、そのような危うさを通過したその先を垣間見せていたように思う。
もちろん、あのネオンにも危うさや既視感もあるんだけど、言ってみれば「既にそこにあるもの」のその先、あるいは、その向こうを、それが何であるのか未だ示されてはいないけれど、示される方向だけは照らし出しているようにも思えた。

そんでもって、これは余談だけど、会場では小室等がしげしげと作品を見ていてね。年齢も立ち位置も違うあの人はこの作品群をどう思いながら見ているのかな。気になる、、、。
でも、そんな小室等を見ていると、いずれ僕もあの年齢になるんだし、その時に若い人たちがやっていることを敬遠するのではなく、仮に馴染めなかったとしても接していたいな、なんて思う。
そして、もし小室等もそんな風にこの会場に来ていたとすれば、小室等もひとりのアーティストとして若い人の空気を吸いにきたんだろうな、なんて思うわけです。