年別アーカイブ: 2014年

2014.11.15

戸惑いの中から

朝、寝坊気味に起きて電車情報を見てみたら、、、。

あちゃ~、新幹線始発から止まってるじゃん。でも、今日はどうしても名古屋と岐阜に行きたい。
運転が再開したのを確認してとりあえず東京駅へ。

50分遅れですかぁ。でも、気長に待ちましょう。今回は搬入や展示の打ち合わせではないし。
予定は狂うけれど、この位の遅れなら何とかなりそう。乗ったら早速ビールで気分転換でもしよう。

で、名古屋に着いたら何とも微妙な時間。走れば間に合うか。
という事でお昼の13時クローズ間際にケンジタキギャラリーに駆け込む。

お次は名古屋市美術館へ。

企画展や常設展をゆっくり見たかったけど、14時からは『水性であること/伊藤正人』展の作家と学芸員によるトークショー。
企画・常設展をゆっくり見れなかったのは残念だったけれど、『水性であること/伊藤正人』展に時間を割いたのは正解だった。

だって素晴らしい展示だったから。

賛否両論はあるだろうけれど、これは見なくちゃいけない展示だと思う。
僕がそこで何を感じたのかについては長くなりそうなので後日あらためて。

トークショーの後もできるだけ伊藤君の展示室にいたかったけれど、次に行かなくては。
後ろ髪を引かれながらも岐阜へ。

GALLERY CAPTIONでやっている『Receptor/丹羽康博』展を見る。

丹羽君の展示についても後日ちゃんと書きたいと思うけれど、伊藤君と丹羽君の展示で共通する事があったので、まずはそれを書いてからにしようと思う。

それは「戸惑い」。

戸惑いを与える展示ってどうなの、と思うかもしれないけれど、本当はどんな展示にも戸惑いはあると僕は思う。でも、ほとんどの場合、とりあえず分かったような気持ちにさせたり、戸惑うとしてもそれと向き合わせないようになっていたり。

両展示ともまずは戸惑いの中で僕を一度立ち止まらせた。むしろ積極的に。でも、それは勝手に考えてくださいといったような突き放した感じではなくて、戸惑う僕の脇にそっと寄り添っているような感じ。
両展示を見て、その質感に異なるところはあったけれど、どこか通奏低音のように共通する響きがそこにはあった。

つづく。

2014.11.14

ただの写真なんだけど

外勤で都心に出たので、いくつかギャラリーを巡ってから帰宅する事にする。

JCIIフォトサロン『遠野物語/森山大道作品展』
GALLERY HASHIMOTO『常温 – ありさま/金田実生』
白銅てい画廊『須田國太郎写真展』
ZEIT-FOTO SALON『Painting by Four』
LIXIL GALLERY『光素の呼吸/木村恒介』
ギャラリー小柳『ma.r.s and negatives/トーマス・ルフ』
AKIO NAGASAWA『AKIO NAGASAWA Inaugural Exhibition』

須田國太郎の写真は良かったですね。視線が留まらないというか、流れていくというか。
ただの写真なんだけれど、得るものは多かったです。
あとは猪瀬光の写真かしら。写真集の刊行も予定されているようだからそちらも楽しみですね。

さあ明日は名古屋と岐阜だ。

2014.10.26

興味大

今日はかみさんに息子のお世話をお願いして展示巡り。
まずはブリジストン美術館でやっている『ウィレム・デ・クーニング』展へ。

作品数は少ないながらも、得るところ多し。でも、やっぱりもっと見たい、、、。
国は違えどポルケとかまとめて見てみたいですね。

さて、お次ぎは初台に移動して『ザハ・ハディド』展、『OPEN SPACE 2014』展を見る。
ハディドも興味深く見たけれど、やっぱり僕の中でのメインは『OPEN SPACE 2014』展でやっていた小沢裕子かな。

今後の展開に興味大。

2014.10.08

それは描く事と重なって

多摩美術大学美術館でやっている『起源/堀浩哉』展に行く。

今日は14時半から千葉成夫氏による講演があったけれど、それには間に合わず、、、。
でも、毎日16時から行われるパフォーマンスには間に合って見る事ができた。

それでパフォーマンスを見た感想だけど、正直、これまで堀さんの絵画とパフォーマンスがどう繋がっているのかよく分からなかった。
でも、今回のパフォーマンスを見ていたら、僕の中ではっきりと絵画とパフォーマンスが繋がって、パフォーマンスの行為と絵を描く事が重なって見えた。

これから毎日行われるパフォーマンス。

今日は大勢の中で行われたけれど、機会があればお客があまりいない時に、できれば誰もいないのが理想だけど、アトリエをそっと覗くような、遠くから見れたらと思った次第。

2014.08.09

後悔先に立たず

先月、frontで催された『余韻』。ふと、frontのブログを見ながら思い出して。

室内にはラジオ放送と時折僕の朗読を流したけれど、今思えばラジオ放送はいらなかったのかも。
その方が自然と窓越しに聞こえる音や室内の静かなざわめきに敏感になったかな。

もちろんラジオ放送を流したのにはそれなりの理由があったのだけれど。
でもそれは僕の事情で、そんなの却下してもまったく問題なかったと思うし、むしろ却下した方がよくなったかもしれないとも思う。

後悔先に立たず、ですね。