月別アーカイブ: 2011年10月

2011.10.29

お初で浅野

かみさんと息子と一緒に銀座へ。
藍画廊『高柳恵里』展となびす画廊『竹内義郎』展を見る。

息子のギャラリーデビューが僕の展示でなかったのは残念ですが、、、。
初めて真っ白な部屋を体験したこともあってか、息子は不思議そう。

ところで息子の笑顔で最近変化が、、、。

それはまるで浅野温子が愛想を振りまく時のあの笑顔。
思い出すのはダブル浅野、あぶない刑事。

そんな事をかみさんに言うと、笑ってはくれますが。
それ古いよ、と一掃されてしまいます。

確かに随分前の事ですね。

2011.10.23

幽霊的に

今日は作品を持って錦糸町にあるゲルオルタナへ。
展示は来月からですが、訳あって今回は早めの搬入です。
その訳とは、、、。

以下、プレスリリース&フライヤーからの抜粋です。

今回ゲルオルタナが迎え入れる河田政樹と友清ちさとは、それぞれが強い主体を持ちつつも、その主体の内と外を自在に行き来できる作品を生み出しています。
2人のアーティストは、それぞれが持ち寄った作品を自身で設置するのではなく、互いに相手の作品を、異なる時間帯で幾度かにわたり、交互に設置していくという方法で展示を進めます。
これはコラボレーションを目的としたものではありません。一人の作家にとってもう一人の作家は幽霊的(ここにはいないもの)であり、作品の前に立つ作家はその幽霊的なものの遺言に強制的に自己の分断を迫られるでしょう。自分の作品に対して無力であることを受け入れ、次の遺言を残すため能動的に作品に関わろうとし、当惑と混乱の中での選択を繰り返す過程で作品は自己完結を免れ、常に変化し続けるものとなりうるのではないでしょうか。
変化とは目的に近づくことでは決してなく、(場合によっては遠ざかる事、目的自体が変化することだってあると思います。)常に様々な現象をニュートラルな状態で受け入れるための一つの方法です。
世の中が常に変化し続けているのと同時に、主体というものは揺れ動き曖昧に存在しています。強くも曖昧な主体とは、刻々と流れる“ 今” をできる限り鮮明にとらえようとする姿勢であり、作品はその過程で生まれる複数の思考の同時的表出を可能とします。
その姿勢こそこの企画のコンセプト(ゲルオルタナの一貫した思い)であり、今回の二人の作家の幽霊的取り組みそのものなのです。

11月18日からです。会期中には友清さんのパフォーマンスもあります。
詳しくはゲルオルタナのHPまで。

2011.10.16

おじさんと

今日はJR岐阜駅からバスに揺られて40分、岐阜薬科大学の薬草園まで撮影に。

う~ん、温室が解放されてなかったのは残念。薬草たちも冬支度といった感じですね。
中に入れないなら開いてるいるドアから撮影を、とそこに職員さんらしき人に声を掛けられて。
怪しい者ではないんですけどね。

でも楽しい事もありました。
以下、そのやりとりです。
ちなみに僕は38歳の中年ですが、お兄ちゃんと呼ばれてます。

おじさん「ちょっとお兄ちゃんこっちに来てみて。」

僕「何ですか?」

おじさん「この葉っぱかじってみて。」

言われるがままに僕はその葉っぱをかじってみる。

おじさん「どう?」

しばらくして僕「苦っ、、、。」

おじさん「これ延命草っていうんだ。口直しはこの葉っぱ。」

葉っぱをかじる僕。

おじさん「どう?」

僕「これはとても甘いです。」

おじさん「だろぉ、これペットボトルの紅茶とか甘くするやつだと思うけどステビアっていうんだ。」

てな感じに、蚊に刺されたらこの草を揉んで塗るといいとか、ある蝶は鳥に食べられないようにこの花の蜜を吸うんだとか話を聞きながら、おじさんと園内をウロウロ。
で、ですね。

僕「おじさんは開園の時はいつもいるんですか。」

おじさん「いやいやオレは隣で畑をやっているだけで、こことは関係ないよ。」

素晴らしいオチです。僕は思わず笑ってしまいました。

さてと、薬草園で撮影をした後は道を挟んだところにある畜産センターへ。
撮影しながらミニチュアホースと触れ合って。といっても、勝手に話しかけていただけですが、、、。
最後は名古屋にあるギャラリーCROSSINGでやっている『朝になったら/小笠原浩二』展を見てと。

さぁ来週はハードな1週間になりそうです。

2011.10.15

行き来しながら、僕は後者で

今日はGALLERY CAPTIONでの個展が最終日。ということで、岐阜へ。
でもその前に、I君の『Corridor』展を見に名古屋にあるギャラリーAIN SOPH DISPATCHへ。

そこには何もない(ギャラリーの壁だけがある)場所を挟んで、あるまとまりを持ちながら短いセンテンスの言葉が壁に書かれて(描かれて)いまして。
まずはその言葉を読んだわけですが、最終的に僕がたどり着いたのは、、、。

壁にかかれた言葉が今回展示している作品だし、まずはそれら言葉を読む事が大切だと思うけれど、どうも僕にはそれら言葉自体というよりも、右や左あるいは前後に移動しながら読んでいった先に現れるものが、今回の展示では重要なんじゃないかと感じられたわけです。

壁にかかれた言葉を読み、移動し、また読む、その中で現れた、けっしてひとつではない通路のようなもの、それはまさに「コリドー」だったのかもしれません。

それと、、、。
これは意地悪な見方ですが、壁に縦書きでかかれた言葉は、右からではなく左から読む事もできるんですね。
例えば。

僕は今日、
岐阜に、
行きました。

をですね。

行きました。
岐阜に、
僕は今日、

といった感じです。
もちろんI君の言葉はある響きを伴っているので、上記の例のように無味乾燥ではありません。

さてさて今日は雨です。やっぱり僕は雨男。でも雨も悪くないですね。
側溝を勢いよく流れていく雨水もあれば、水溜まりをつくりながらゆっくりと静かに地面に染み込んでいく雨水もありますね。

最終日にあらためて自分の展示を見ていると、きっと僕の展示は後者なんだろうな、なんて思ったり。