2006.11.22

痛みのあるところ

このところ新聞やニュースではいじめ問題が取り上げられているけれど、自身のことを思い出してみれば「いじめる/いじめられる」ことは、出口のない入れ子のようなものだったように思う。
ある時は悪ガキと徒党を組み、人の弱みに付け込んでいたかと思えば、学年が変わり進学すればその状況は一変していた。それはコインの表裏のようでもあり、ちょっとしたきっかけで「いじめる/いじめられる」という構造は逆転してしまう。

自身の置かれている状況に対して、何かしらでも対処できる経験を持ち合わせていればよいのだけれど、その経験を持ち合わせていなければ、当然のように逃げ場を失ってしまう。それは管理された社会であればあるほど、そして、無防備にその社会に依存するしかない年齢であればなおさら逃げ場を失ってしまうことだろう。

逃げ場を失いつつも、逆転のさし手があるとすればそれはいかなる事であろうか?
傷つける側に転じる事なのか、あるいは、自身の命を絶つという最後の一手なのだろうか?
そして、子供たちにとって本当の加害者とは誰なのか?

新聞やニュースなどを見ていると、いじめの当事者である子供たちはともかく、いじめられたとする子供たちの親が、被害者として子供たちと同等に扱われている。もちろん、ニュースがそのように扱っているということもあるのだけれど、親である以上、その悲しみや憤り、責任の追求を学校や社会に求めてしまうことは理解できる。
けれども、僕にはその親たちが本当に子供たちと同等の被害者なのだろうか?と、思ってしまう。

つまり、子供たちが参加している地域/社会をその親たちが形成し、導いていく立場にあるのだとすれば、少なくとも親たちについては、加害者/被害者という、単純な構造にはならないと思うからだ。
言い方が悪いかもしれないけれど、直接/間接であれ、その地域/社会を形成している以上、その親たちは加害者としてどこかで加担しているところはなかったのか?その事に対する疑問はないのか?と思ってしまう。

傷つき失った命の痛みに涙し、目に見えている世の中がぼやけてしまう前に、自らが犯していたかもしれないことの痛みについて、僕を含めて、今一度考えてみる必要があるように思う。