月別アーカイブ: 2007年2月

2007.02.09

サーバー移転(予告)

突然ではあるけれど、あと1週間くらいしたらサーバーを移転する予定です。
何だか読み込みが遅かったし、サーバー容量も少なくてコンテンツも充実できなかったのでね。

移転のときはアドレスが変更になるので、もしブックマークなどして頂いている方がいましたら、ブックマークの変更をよろしくお願いします。まぁ、このアドレスも移転告知のためにしばらくは残しておこうと思うけれど。

それでは、、、。

2007.02.07

焼き肉屋のマスター

今日は所用で都心に出たので、夕飯を友人と一緒に食べることにする。
夕飯といっても、すでに午後7時をまわっているから晩飯と言った方がいいのかもしれないけれど、ちょっと疲れ気味の体に活力をと思い、行きつけの焼き肉屋に行く事にする。

いや~、いつきてもここのマスターは面白いね。それに今日はマスターと仲の良い常連らしきお客もいて話も盛り上がっている。マスターも上機嫌だ。
だけど、僕の悪い癖でそんな上機嫌のマスターを見ていると「何話しているんだろ~」なんて気になっちゃってね。まぁ、いつも声が大きいものだから聞きたくない事も聞こえたりもするんだけど、、、。

そんでもって、マスターが上機嫌に常連客と話していた事といえば、80年代の音楽について。聞こえてくるアーティスト名はバブルガムブラザーズだったり、、、。
マスターは社交ダンスが趣味のようだし、その曲にあわせて踊っているのかな。楽しそうに話しているマスターを見ていると、その曲にあわせて楽しく踊っているんだろうな、なんて想像しちゃうね。

そして、そんな上機嫌のマスターを見ていると「くよくよしていてもしょうがないよ」「楽しい時くらいは悩みを忘れて踊ろうよ」なんて言われているようでもあってね。その日暮らしとまではいかないけれど、そのくらい気楽に考える事も必要だよな、なんて上機嫌のマスターを見ていると思う訳です。

2007.02.05

書道展

友人の家族(以下、Mさん)が東京都美術館で書道を展示していると案内状を頂いたので見に行く。

この展示会を見るのは初めてではないけれど、いつも思うのは大賞などの賞が与えられている作品とそうでないものの違いがわからない、という事。
中には「これは!」なんて気になるものもあるけれど、それは賞に入っていないし、、、。以前、会場にいた人に説明をしてもらったけれど、それでも「うぅ~ん」と唸ってしまうね。

ただ、Mさんの作品を見つけそれを基準に見ていくと、意外と違いが見えてくる。「これは大きい作品だけど勢いだけかな」とか「こちらは小さいけれど広がりを感じるね」なんて。
Mさんの隣には準大賞の作品があったけれど、僕の目にはどうも弱々しいだけで「何でこれが準大賞なのかな」なんて思う。
一方、Mさんの作品はといえば、力強くもありながら線に強弱があって、準大賞より広がりを感じる。
いや~、こんな事書いたら書道をやっている人に怒られちゃうな。

だけど、こうやって書道の展示会を見ていると、賞を与える基準(作品の善し悪し)が見えなかったように、僕の作品だってそのように見えているだろうな、なんて思う。
先週個展をした藍画廊は、大きなガラス戸の出入り口が通りに面しているから、ふとガラス戸越しに僕の作品が見えたとしても、
「何してんだろ」
「植物が置いてあるね」
「あれ、ここフラワーショップだったけ」
なんて事もあると思う。

まぁ、どうやったって自分の作品を客観的に見ることなんて出来ない訳だし、こういう機会を頼りに自分の作品がどう見られているのか想像してみるのもいいものですね。
それに、思い込みの自信でちょっと伸びた鼻っ柱をちょきんと切ってくれるような感じがしてね。勢いで膨らんだプライドも空気の抜けた浮き輪みたいになる訳です。

2007.02.03

Byの後に長く

展覧会も終わりほっとひと休みといきたいところだけどそうもいきませんね。いろいろと思うところもあるし、、、。
でも、時間を割いて見に来て頂いた方々には感謝です。

さてと、展覧会を振り返って思う事なんぞ、、、というのはとりあえず置いとくとして、その代わりと言ってはなんだけど、会期中に気になったエピソードがあったのでそれを書こうと思う。

これから書く事はちょっと長くなるので、お付き合い頂ける方、興味がある方はどうぞ。
まぁ、このDailyは自分が忘れないためのメモでもあるのでね。物忘れが多くなった頭が忘れぬうちに残しておかなくてはいけません。

・・・・・

さて、展覧会の最終日、閉廊の時間が押し迫っている中、ひとり老人が訪ねてきた。 その老人、体の具合が思わしくないのか、片足を不自由そうに杖をつきながら歩き、挨拶する言葉もとてもゆっくりだ。

老人は展示をひと通り見終え僕に話しかける。最初は社交辞令のように。けれども、話は次第に展示している作品やこれまでの活動についていろいろと深まるばかり。
20分位話しただろうか、閉廊の時間も過ぎた頃、話の途中ではあったものの僕は失礼して搬出のため近所のコインパーキングまで車を取りに行く。

しばらくして車を画廊の前に停めると、すでにその老人は画廊を後にし街の暗がりの中へ消えつつあるところだった。僕はその老人を追いかけ、話が途中で終わってしまった事を謝り、そして見送りの挨拶をする。

老人を見送った後、僕は画廊に戻る。そして、僕が車を取りに行っている間老人が何を話していたのか、老人の話し相手をしてくれていた友人に聞く。その話には老人の率直な気持ちや感謝の言葉も含まれていた。そして、老人は次のような言葉も残していった。

「もう僕は体の具合が良くないから、東京以外でやっている展覧会には行く事ができません。でも、彼の展覧会が東京である時は見に行きたいので連絡をください。」

「東京で彼の展示が見られるまでは、何とか体を保たせます。」

・・・・・

さて、このようなエピソードに「情け」を感じる人もいると思う。そして、その老人の言葉を疑うこともできる。

けれども、僕は以前から現代美術と言われているところに関わっていく中で、見ないふりをしながらないがしろにしていた、あるいは「情け」として切り捨てていた部分を、その老人の言葉によってぐっとつかまれたような気がしてならない。

世の中には、作品を見てうんちくを言う人もいれば、こりかたまった頭で物言う人もいる。
もちろん、それもひとつの意見であるから僕なりにありがたく頂戴するけれど、でも、その言葉が僕に響くかと言われれば、老人の言葉のように響くことはない、と思う。

老人は僕の作品を見、感想を残した。ただそれだけである。しかしながら、その言葉は僕に響き、忘れていたことを呼び覚ますきっかけを与えた。そして、僕の作品をまた見たいというただの感想が、これからも作家としてやっていくだろう僕の基本姿勢を見つめ直すきっかけを与える言葉でさえあった。

・・・・・

街暗がりに消えて行く老人に僕は「お気をつけて」とお見送りの挨拶をすると、老人は「老人にそのような挨拶は無縁です」と言う。そして「また会いましょう」と言い残し、街の中へ消えて行った。