カテゴリー別アーカイブ: 思う事

2013.11.25

M君、またどこかで

定期的に送られてる、かつて通っていた大学の情報誌。
いつも隅々まで目を通すことはないから、今回もパラパラめくるだけだった。

かみさんもいつもは僕と同じようにしていたようだけど、なぜか今回はいつもよりちゃんと読んだらしい。
そして見つけてしまった、ご逝去された方々の欄にM君の名前。

あなたにとって親友は誰、と聞かれれば、僕にとってM君が唯一だった。
といってもM君は僕のことをそう思ってはいなかったかもしれない。

大学を卒業してから徐々に会う機会も減り、ここ数年は郵便物も届かなくなった。
それでも僕はよかった。またどこかで偶然にでも会うことができればと思っていた。そして、僕の勝手な思いではあるものの、そういう関係を築くことを彼は許してくれるだろうと思っていた。

いろいろなことに敏感に反応するアンテナを持ち合わせていたM君。
何気ない言葉の中に鋭い指摘が含まれていることも多かった。
立ち居振る舞いはいつも色っぽく、そしてかっこよかった。

こんなかたちでM君のことを知りたくはなかったけれど、こんなかたちでしか知ることもなかったのかもしれない。
あなた、どうせいつものようにパラパラめくるだけでしょ。だからかみさんに今回はちゃんと目を通すようにと伝えておいたよ、とM君に言われているかのようだ。

M君、またどこかで。

2013.01.20

いつかまた振り返るために

ここに書く事ではないと思うけれど、、、。
いつかまた振り返るために、大事な事を、恥ずかしながら。

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昨年の暮れ、Sさんから『MOTアニュアル』での展示に関連する事で連絡をもらった。
それは1999年、山根勇さんが神宮前にあったGallery ART SPACEで開催した展覧会の事で、山根さんはギャラリー(事務所も含む)の備品を全て撤去して空っぽにした。僕は会期中に行われた対談の相手として参加したんだけど、その時の様子が同ギャラリーが発行していた「Infans No.4」に残っていて、あらためて読んでみると展覧会の性格も手伝ってか、結構美術の制度について話している。

この展覧会自体は決して美術の外に出るようなものではなかったし、むしろ美術の中でモヤモヤしている事や普段は隠されている事をはっきり見せる展覧会だったと思う。はたきで余計なホコリを叩いた後のような、何もないのにギャラリーという営みだけで満ちた空間がそこに現れて、それが展覧会としても成立していた。

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2009年、僕は岐阜市内で展開された『よりみち・プロジェクト – いつものドアをあける』に参加した。
僕はCAFE COCON(喫茶店)と岐阜市文化センターのウィンドウギャラーおよびロビーを自分で展示、GALLERY CAPTIONではpand(雑貨店)プロデュースで僕の作品を展示してもらった。

こちらも当時の記録が冊子になって残っているけれど、その巻末に秋庭史典さんによるテキストが寄せられている。そのテキストには僕が「よりみち・プロジェクト」でやろう(起こそう)としていた事の核心に鋭い観察眼で迫りながら、だからこそけっして忘れてはいけない事が書かれている。

例えば「金町。見られるのではなく、ただそこにあるだけの。」の章では、文化センターのロビーでの展示について、休憩をしている人たちの中で秋庭さんだけがひとり僕の作品(写真)を探し理解しようとしてる。でも、それはおかしな事だと感じ問う。「わたしは何をしようとしているのだろう?」

僕はチラシや備品と同じように写真を掲示板に張ったり受付に飾ったりした。そして売店の商品ケースに置いた写真の扱いについては売り子のおばちゃんに任せた。

秋庭さんはそんな状況や作品のあり方について「ただみんな、黙々とそれぞれの営みを続けている。」「老若男女の誰もがロビーで憩うことができるのと同じ意味・同じ資格で、誰にも邪魔されずに、また誰の邪魔をすることもなく、ロビーに、受付に、路上のギャラリーにいる。」そして章の終わりに「わたしだけが異物のように、「ただ互いにそこに居る・それでよい」というこの光景を、強い印象とともに、眺めていた。」と記す。

僕は秋庭さんのテキストを読み返す事の中で、あの光景の中で感じた感覚を呼び覚ます。

*以上、カギ括弧内の斜体は冊子「よりみち・プロジェクト – いつものドアをあける」より。

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自分で展示したとはいえ、文化センターのロビーでは稀な光景に立ち会えたと思う。ロビーで憩う人たちと同じように僕もひとりの人としてそこで憩うことが、写真も作品としてではなく、ただそこに寄り添うものとしてあることを許されていたというか。そこには心地よい関心と無関心があったと思う。

『よりみち・プロジェクト』の記録は冊子やこのサイト内のExhibitionsGALLERY CAPTIONのHPArtholic Freepaperのinterviewで見る事ができます。

2011.09.24

あらためて気付くこと

20110924

今日は自分の展示を見にGALLERY CAPTIONへ。

あらためて気付くことってありますね。
例えば「座る」あるいは「座りながら何かをする」ということについて。

Yさんにご指摘いただき、当初、ひとり掛け用ベンチを置く予定だった展示室にオフィスの椅子を置いてみる。
すると自分でも気付かなかったことが見えてきたんですね。

ゆっくり作品を眺める、目をそらす、くつろぐ、居眠りする等々、そんな意図もあって、これまで僕の展示ではベンチやクッションを置いていたわけですが、それとはまた違うというか、、、。
立って見るのと座るのとでは、展示の印象だけでもだいぶ違うんですね。

ラジオ番組が時にうるさく聞こえる事もある今回の展示。
椅子に座りながら展示を見ていると、壁に展示している作品とラジオ番組の放送、場合によっては展示室にいる人やその状況さえも、程よい距離感でこちらに届く感じ。
何でしょうね、これ。

それと、展覧会初日はまだ残暑も厳しく、窓を閉め切っていましたが。
今日は涼しく窓が開け放たれていた次第。
窓の開け閉めだけでもラジオ放送が違って聞こえるものです。

さてさて、今日は訳あって日帰り。
クローズの後、ギャラリーのはからいで小一時間ほどワインとピザで会食。

季節限定、みょうがのピザ。
うまいです。

2011.04.01

久しぶりに

TOKI Art Spaceで友人の展示を見た後、久しぶりに自然教育園へ。
いつものように目的は撮影です。

草花も徐々に芽吹き始めていますね。
植物たちは日差しを反射してキラキラ。
眩しいくらい。

このところ塞ぎ込みがちだった気持ちも、輝く植物たちに励まさせてどこかへ。
なんだか大切にしていたものを取り戻した感じも。

被災地でも植物たちは花を咲かせ、葉を茂らせるだろうか。
厳しい生活が続いているけれど、芽吹いた植物たちの姿を見て救われる事があれば、と思う。

植物たちは僕たちと無関係に育つ。そして僕たちの行いで枯れもする。
それは遠くて近い、隔たりがありながらも身近な存在、でもある。
だからこそ、そこから得るものも多い、と思う。

今日、植物たちを前にして思うのは、やわな応援メッセージよりも、植物たちの方がより強く、言葉にならない言葉として、被災した人たちに届くかもしれない、ということだ。

2011.03.25

残念

友人のHさんより連絡あり。
美術評論家の鷹見明彦さんがお亡くなりになられたとの事。

最近はお会いする機会がなかったけれど、とても残念、、、。
まだやり残した事が多くあるのではないかと思うとなおさら。

僕が記憶している限りでは、多くの展示をコンパクトカメラで撮影していた。
自宅にはファイリングされたそれら写真が残っているのだろうか。
もし残っているとしたら、鷹見さんの言葉とともに現場を見続けた記録として、何かの形で日の目をみる事があればと思う。

そして僕自身の事で振り返れば、、、。
当時、未熟な学生でしかなかった僕がMOTアニュアルに参加できたのも、鷹見さんのご指南があってのこと。
そのほか、多くの場面でお世話になった事を思い出す。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。