カテゴリー別アーカイブ: よもやま話

2020.09.20

ありがとう

20200920

今日はかみさんと息子が僕の誕生日会を開いてくれる。
食事は息子が考えて、しかも全て手作り。

うれしいですね。

事前にリクエストしたのは、小松菜のおひたしだけ。
でも、これが絶品。

う〜ん、うまい。
これは真似でいない。
悔しい、、、。

更に腕を上げたな、息子よ。
ポテトサラダもいいぞ。

そしてかみさんからうれしいプレゼント。

ありがとう。

2020.06.20

ありがとう

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今日は夕飯をかみさんと息子が作ってくれる。
一日前だけど「父の日」ということで。

かみさんは「チーズダッカルビ」と「冷麺サラダ」。
息子は「豚キムチ」に「小松菜のおひたし」と「豚肉の照り焼き」。

どれも美味しかったけれど、特に「小松菜のおひたし」は絶品。
それに食材の使い方もいい感じ。
小松菜の茎は「豚キムチ」に、葉っぱは「おひたし」に、そして、あまった豚肉は「照り焼き」にして。

腕を上げたな、息子よ。

元気をもらって明日からまた夕飯作り頑張ります。
ありがとう。

2020.05.30

眼で触れる

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今日は午後から家族3人でスケッチをする。

息子は色鉛筆、かみさんは水彩、僕は割り箸ペンに墨汁。
風にあおられ、蚊に刺されながらも、約2時間、それぞれ楽しむ。

で、息子の絵を見て思う。
眼で触れているような、そんな感じ。

忘れてはいけない事を思い出す。

2020.04.17

当たり前のまえ

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勤めている職場が昨日から交代制で有給を取る事に。
で、今日は僕がお休み。

という事で、息子と運動不足解消をかねて外出。
午前中はリップスティックなる乗り物で遊ぶ。

今日で乗りこなすぞ、と息子と意気込んだけれど、、、。
これ、意外と難しい。乗りこなすにはひたすら練習あるのみか。
息子はフラフラしながらも少し乗れるようになったけれど、焼きの回った僕はまったく、、、。

さてと、お昼ご飯を食べて午後はカメラを片手に近所を散歩する。

はじめは「何にもないだろうし行きたくないよ」とぐずっていた息子。
「いや、何もないから行くんだよ。ただブラブラするのもいいもんだよ」と僕。

結局、散歩してみるといろいろ発見があって楽しかったよう。
次はただぼおうっとしてみるのもいいかもしれないね。運動不足解消にはならないけれど。

夕方は鶏ささみのフライを一緒に作って。

不自由だったり行動が制限されるのは悪い事ばかりじゃないでしょう。
そこから何かしらの気づきがあるだろうし。
作品をつくる、見せるというのもそういう事に関わっているからとも言えるでしょう。

2020.03.08

沈黙と測りあえるほどに

武満徹著『音、沈黙と測りあえるほどに』を読む。

吃音に関しての記述は興味深い。
もちろん、その他にもいろいろ。
でも、その中で今、繰り返し読んでいるのは「一つの音」と題された文章、そしてこの部分。

以下、長いですが引用します。

では邦楽(の音)は、今日の私(たち)の音楽生活とは無縁のものとして捨去るべきだろうか?
 だが、伝統的な邦楽は、この地上に存在する他の多くの音楽と同様に、私を捉えて離さない。
 作曲という音楽的表現行為が、人工的な技法の問題としてしか理解されず、また形式上の斬新さがただちに新しい価値であるように錯覚されている「個性」にたいする誤った考えのまえに、音はついに自然の音のように無に等しい状態にたち還って行くという認識は、批評を超えた恐るべき問いとして活きているように思う。私はこの認識の根かたにひらけている異質の音の領土を、西欧的訓練を経た一個の作曲家として歩きたいと思う。西洋と日本の、異なる二つの根源的な音響現象の秩序を生きた、異なった二つの音楽を自己の感受性の内に培養すること。そして、作曲の多様な方法によって、その相異を明瞭[あきらか]に際立たせることが最初の段階[ステップ]になるのである。矛盾を解消するのではなしに、その対立を自己の内部に激化することが、作品のたえず進行しつつある状態──それはきわめて不安定な歩調[ステップ]であるが──を保ち、この実践が伝統の暮守に堕すことから私を遠去けるだろう。
 私は沈黙と測[はか]りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。私の小さな個性などが気にならないような──。

武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』「一つの音」p.197、[ ]内はルビ

この本の表題にもなっている最後の一文は考えさせられる。
そして、それはいつまでも響いて止まない。