2020.03.08

沈黙と測りあえるほどに

武満徹著『音、沈黙と測りあえるほどに』を読む。

吃音に関しての記述は興味深い。
もちろん、その他にもいろいろ。
でも、その中で今、繰り返し読んでいるのは「一つの音」と題された文章、そしてこの部分。

以下、長いですが引用します。

では邦楽(の音)は、今日の私(たち)の音楽生活とは無縁のものとして捨去るべきだろうか?
 だが、伝統的な邦楽は、この地上に存在する他の多くの音楽と同様に、私を捉えて離さない。
 作曲という音楽的表現行為が、人工的な技法の問題としてしか理解されず、また形式上の斬新さがただちに新しい価値であるように錯覚されている「個性」にたいする誤った考えのまえに、音はついに自然の音のように無に等しい状態にたち還って行くという認識は、批評を超えた恐るべき問いとして活きているように思う。私はこの認識の根かたにひらけている異質の音の領土を、西欧的訓練を経た一個の作曲家として歩きたいと思う。西洋と日本の、異なる二つの根源的な音響現象の秩序を生きた、異なった二つの音楽を自己の感受性の内に培養すること。そして、作曲の多様な方法によって、その相異を明瞭[あきらか]に際立たせることが最初の段階[ステップ]になるのである。矛盾を解消するのではなしに、その対立を自己の内部に激化することが、作品のたえず進行しつつある状態──それはきわめて不安定な歩調[ステップ]であるが──を保ち、この実践が伝統の暮守に堕すことから私を遠去けるだろう。
 私は沈黙と測[はか]りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。私の小さな個性などが気にならないような──。

武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』「一つの音」p.197、[ ]内はルビ

この本の表題にもなっている最後の一文は考えさせられる。
そして、それはいつまでも響いて止まない。