2020.01.03

あとは切手を、わたしのいるところ

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昨年の読み納めは小川洋子・堀江敏幸著『あとは切手を、一枚貼るだけ』。
そして今年の読み初めはジュンパ・ラヒリ著『わたしのいることろ』。

どちらも読み納め、読み初めとして良し。
といっても『わたしのいることろ』はまだ途中だけど、、、。

『あとは切手を、一枚貼るだけ』は何度か読み返す中で、気になったところが多く出てきて。
その中でも十四通目のところを、まずは。

少し長いですが引用します。

 永久に消えてしまった存在を、不在という言葉に置き換えるのはあまりにも安易です。言い換えの暴力が許されるなら、人は罪をいくらでもごまかして、楽に生きていくことができるでしょう。ぼくたちの暮らしに必要なのは他者への想像力であり、それは暴力的な言い換えを拒むことだと、何度も確認しあいましたね。言葉だけではありません。表現とはなべてそうしたものです。生まれなかった子どもの顔、世に出ることを拒まれた子どもの、未来の顔を描く際にも必要な力でしょう。公園にいた絵描きには、少なくとも偽りのない想像力がありました。その成果の一部が、こうしてぼくたちの手もとに残されているわけです。
 けれど、いま頼れるのは、自身の想像力だけです。叙事による詩は、そこからはじまるのです。音の伝わらない真空の闇のなかでふわふわ宙に漂いながらきみと交信し、制御不能に陥らないよう身を持していたとき、ぼくが全身全霊で試みていたのは、「そこにないものの痕跡を探る」という完全な矛盾でした。あるいは「無音の声を聴き取る」ことだったことも理解しています。赦す赦さないの表面にとどまるかぎり、もっと大事な声を、もっと小さな声を聴取することができなくなってしまうでしょう。その段階は、とうに超えました。だからこそきみとの手紙のやりとりが可能になったのです。

(以上、小川洋子・堀江敏幸著『あとは切手を、一枚貼るだけ』 pp.273-274より)

「そこにないものの痕跡を探る」や「無音の声を聴き取る」、そして「赦す赦さないの表面にとどまるかぎり、もっと大事な声を、もっと小さな声を聴取することができなくなってしまう」というところも。

今の僕にとって日々の生活や作品をつくることの中で感じ、常に考えていかないといけないと、まさにそう思っていたので。

『わたしのいることろ』を読みながらも、反芻している次第。