Masaki Kawada Web

漂いながら、思うままに、ともだちのこと

 「感覚」を感じることってできないでしょ。味わったり経験したりするものじゃない。でも「ともだち」ってどうだろう。誰かを「ともだち」として味わうのは変だし、むしろ感じるものだと思うんだ。相手が誰であれ、その人を「ともだち」と感じた時、いや、その人との関係に「ともだち」を感じた時と言った方がいいかな。
 難しい説明なんていらないよ。「ともだち」と感じた時が「ともだち」さ。話したり遊んでいるうちに気づいたら「ともだち」って感じ。でも、そうだとしたらその関係に「ともだち」を感じなくなった時が「ともだち」じゃなくなるってことなんだよね。いつ、どうなるとそう感じるのか、突然に、じわじわと、気付かないうちにってこともあるかもしれない。
 思うんだけど、関係がうまく行っている時って「ともだち」についてあまり考えないかもしれないね。元気な時は気にしないけれど、病気になると考えることってあるでしょ。そんな感じ。何かの加減で相手との関係がぎくしゃくした時に「ともだち」について考えるのかもしれないね。
 ところで、今回のテーマは「ともだち感覚」ということだけれど、それを聞いてまず思い浮かんだのがヒップホップの音だったのね。それぞれのフレーズが繋がったり離れたり、さまざまなパターンでループしたり。接点のなかったものがたまたまミックスされてひとつの曲になっている感じとか。刹那的と言ったら失礼かもしれないけれど、そういう感じもどこかあってね。
 それと感覚的なところも。例えば、ヒップホップを聴いていると感覚でわかるっていう時があるんだけど、「ともだち」を感じる時にもそういう感覚があるんだよね。ある時、何かをきっかけにして「ともだち」を感じるっていうかさ。後から気付くっていうのかな。
 実はこの文章もあらかじめ着地点を決めているわけじゃなくてね。エッセイになるのかもわからないまま、とりあえず成り行きに任せて書いている感じ。きっとどこかで終わりを感じたところが着地点になるんだろうね。どんな内容の文章になったのかもその時にわかるのかなって。
 話が逸れたけど、『Secondhand Sureshots』っていう映像作品にも「ともだち」を感じるところがあってね。
 スリフト・ストアで購入した中古レコードに真摯に向き合う4人のビート・メイカーたち。そこにどんな音が刻まれているのか、どこをサンプリングすべきかターンテーブルに針を落として耳を傾ける。そして、彼らは他人の曲をリサイクルして新たな曲を作る。
 映像の最後で自らの曲が記録されたレコードをスリフト・ストアのレコード棚に戻すのも、映像作品のテーマに沿っているとはいえ、自らの曲が誰かの手でリサイクルされて新たな曲の一部になることを厭わない、むしろそれを当然のこととして楽しんでいるようにも見えるんだよね。そして、彼らはいまだ出会ったことのない曲への想いと、出会った曲への悦びと失望を抱きながら、さまざまな音がリサイクルされるサウンドの海の中を漂っているようにも感じるんだよね。
 もし、「ともだち」もサウンドの海のようなところで形作られているとしたら、触れ合うことのなかった人たちがたまたまミックスされて、思いもよらない「ともだち」が形作られたり、その「ともだち」がまた別の「ともだち」を形作ることもあると思うんだ。そして、僕たちはいまだ感じたことのない「ともだち」への想いと、感じている「ともだち」への悦びと失望を抱きながら、出会いと別れが織りなす関係の中を漂っているのかもしれないね。

『ともだち感覚 カタログ号(全感覚 vol.7)』 / 2016年 / p30