Masaki Kawada Web

コメント

小説やエッセイ、詩、その他ジャンルを問わず本を読んでいると、作品について思い悩んでいることが解決したり、あるいは、そのきっかけを与えてくれる言葉や文章に出会うことがあります。そしてまた、それら言葉や文章は僕の作品を鑑賞する上でほかの人にも何かしらの手がかりを与えたり、何かを解決させることがあるかもしれないと思うことがあります。 僕が書いた文章で作品の案内をするのではなく、誰か別の人が書いた文章に作品の案内を委ねてみる。 最近読んだ本の中でその案内役にふさわしい文章を挙げるとすれば、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章ー文化と価値』に収められている数々の文章になるでしょう。そこで最後に『反哲学的断章ー文化と価値』からいくつかの文章に作品の案内役を委ねてみようと思います。そして、僕もそれら文章に案内されながらあらためて作品と向き合うことで、つくり手でありながらも鑑賞者のひとりとして思い巡らすことができるかもしれません。

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「私の書くどの文章も、意味するところは、いつも全体である。つまりおなじことをくり返し言っている。いわば、ひとつの対象をさまざまな角度からながめたものにすぎない。」

「哲学者は、しばしば幼児のようだ。幼児はまず鉛筆で、好き勝手な線を書きなぐってから、大人に「これ、なあに?」とたずねる。───こんなことがあった。大人が子どもに何度か、絵を描いてみせて、「これは男の人」、「これは家」などと言ったのである。すると子どもも線を何本か引いて、「じゃ、これ、なあに?」とたずねたのだ」

「凡庸な物書きが気をつけるべきことは、荒削りで不正確な表現を、正確な表現に性急に置き換えないことである。そんなことをすれば、最初のひらめきが殺されてしまう。小さな植物にはまだ生命があったのに、正確さのために、枯れて、すっかり無価値となる。ゴミとして捨てられてしまいかねない。貧相でも植物のままであったなら、なにかの役に立っていたのだが。」

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章ー文化と価値』より

『Emmetropia -震災後をみつめる- + アーティストチャリティー2015』 / 2015年 / コメント