Masaki Kawada Web

そのように作用するもの

今更ながらではあるものの、この文章を書くにあたって気付いたのは、僕はあまりジャンルを気にして見たり読んだりしていないということ。もちろん映画と小説、漫画くらいの区別はするけれど、それ以上の、例えば映画だったらアクション映画とSF映画をはじめから区別して見ていないようで、それは幼い頃からあまり変わっていない。だから今回のテーマである「わたしの好きなSF」というのは「わたしの好きなものの中にあるSF」となるのかもしれない。

ということで、まずは幼い頃の「わたしの好きなもの」の中からSFだと思うものを挙げてみると、ほとんどはTVで放送された映画やアニメ、単行本の漫画。どれにも共通しているのは、見たり読んだりした時のワクワク感や高揚感だろうか。近未来的な道具や機械が発する音や光、なさそうであり得そうなちょっとした不思議、そして現実と重ね合わせながらもそこから自分なりに空想して遊べることも。当時の僕はあまり考えずにそこに見えていること、聞こえてくることを優先して好き嫌いを決めていたから、物語の設定や進行は二の次。別のいい方をすれば、考えたりすることの中に面白味があるものや、後で物語の設定に興味を持っても、そこに見えていることや聞こえてくることに魅力を感じないと好きにならなかったのだと思う。SFだから好きになるということはなかったけれど、「わたしの好きなもの」を見てみるとSFと思えるものの割合が多いから、結果、当時の僕はSF好きな少年だったと言えるのかもしれない。

その後「わたしの好きなものの中にあるSF」がどう変わって行ったかといえば、映画は常にあるけれどアニメと漫画は減り続けここ数年はないに等しい。その代わりに物語の設定や進行に着目したもの、ワクワク感や高揚感から外れるものがあったり、新たに小説や音楽が加わって年々増えている。でも、幼い頃と比べると「わたしの好きなものの中にあるSF」の総数は減少傾向。その原因は何かと考えてみると、どうやら僕はSFのFの方、そしてFの中でも「フィクション」より「ファンタジー」の方に重きを置いていて、そのFに「サイエンス」のSが寄り添っているSFを好むようで、だから成長とともに「わたしの好きなものの中にあるSF」が少なくなったのも、徐々に「ファンタジー」から離れたことや「サイエンス」そのものへの興味が強まったことにあるのかもしれない。

さて、ここからは拡大解釈にすぎないと思われるのを承知の上で、SFをより想像力に関わるものとして、より感覚的にSFだと感じるものを挙げてみようと思う。

僕は一時期、ブライアン・イーノの「アンビエント・ミュージッック」やエリック・サティの「家具の音楽」に影響を受けて作品をつくったり展示をしていた時がある。「聴くこともできるけれど、無視することもできる音楽」や「家具のように生活の中に溶け込む音楽」というのは、つくることや見せることについて僕に根本的な変更を与えた。その影響は今でも僕の中で響いているけれど、イーノが「雰囲気としての音楽の利用」について残した言葉や「アンビエント・ミュージッック」のあり方とその響き、「家具の音楽」でサティが提示したこと、その両方に共通するだろう聴衆との関係や聴取に僕はとてもSFを感じる。「アンビエント・ミュージック」や「家具の音楽」に関する何にSFを感じるのかは感覚的にそう感じるとしか言いようがないのだけれど、つくることや見せることについて根本的な変更を与えられなかったら、それらにSFから感じることはなかったかもしれない。

次に、これは自作についてのことだけれど、これまでにつくった作品の中でSFを感じるものはと言われたら「星座の輪郭」と題する立体作品をまず挙げる。星座を地球以外のところから眺めたらどう見えるだろうかという着想から、星図に示された星の位置を透明ゴムシートに転写して、その星々の点を任意に繋ぎ合わせた4点から5点組の「星座の輪郭」。想像するしかなかった星座の横顔を見ているような、近くで見ているのに星座を眺めている時に似てどこか遠くにあるものを見ているような、そんな感覚。透明ゴムシートをただ丸めたようにも見える「星座の輪郭」は、それを見た人の想像力と重なることで作品たり得ているのかもしれないとも思う。

そして、3歳になる息子との暮らしの中でも。

息子は時々答えるのが難しいことを聞いてくる。例えば、上向きの矢印を見て「うえはなんでうえ?」とか。理屈で答えても息子は納得しないからそういう時は想像力で答える。会話の中でわからない言葉に出会うと「いま、なにいった?」と聞き返す。会話が途切れた時に何か音がすると「いま、なにいった?」と聞き返す。息子の「いま、なにいった?」の使い方が間違っているのかもしれないけれど、僕はその音が息子にどう聞こえたのかまずは想像してみる。東日本大震災が起こる約1ヶ月前に生まれた息子は、未だ余震が続く中、ほかの乳児と同じように自分の意志を泣くことで示していた。最初は気付かなかったけれど、よく観察してみれば余震が来る少し前にも泣いている。いつしか正確に地震が来るのを知らせる息子を僕たち家族は半ば冗談混じりに「予知夢くん」と呼ぶようになった。そして3歳を迎えたある日、息子が僕に「あした、じしん」と言う。「本当?」と聞き返しても同じ言葉が返ってくる。その頃、息子は「予知夢くん」から遠ざかっていたから、僕は息子が言うことを少しだけ気にかけることにした。そして翌日の早朝、僕は地震の揺れで目が覚めた。

息子との暮らしの中でSFと感じることについては、今後、息子が成長するにしたがって少なくなっていくかもしれないと思ったりする。なぜなら何かを覚える、学ぶということは何かを得ながらも同時に何かを失う、時として間違いかもしれないけれど感覚として大切なものを感じられなくなることでもあると思うから。息子と日々接していると、以前はSFと感じたことが成長していく中でSFと感じられなくなることが少なくない。

最後に、今回のテーマである「わたしの好きなSF」からだいぶ逸れてしまったけれど、こうして「わたしの好きなものの中にあるSF」や「より感覚的にSFを感じるもの」について書く中で浮かび上がってきた言葉はオーソドックスにも「センス・オブ・ワンダー」だった。でも、僕にとってそれはある不思議な感覚でもありながらも、当たり前のこととして見過ごしてしまうそれに向き合わせ、目の前に見えている、現れている様が何なのか一度立ち止まり考えさせる、知識や教養を揺さぶり疑問を投げかけさせるものでもある。そして、あらためて「わたしの好きなSF」を挙げるとすれば、そのように作用するものと言えそうだ。

『全感覚 vol.4』 / 2014年 / pp.38-39