Masaki Kawada Web

御岳のスタジオで

2002年3月、僕は青梅市御岳にあった若林スタジオに制作助手として就くことになった。主な仕事は豊田市美術館とKENJI TAKI GALLERYでの個展の準備。当時のスタジオには若林さんのほかにマネージャーが1人、事務が1人、そして制作助手の僕と猫が2匹。その時々によって全員がスタジオにいる時もあれば、若林さんと僕だけの時もあった。スタジオにある作業場はつねにピンとした空気が張りつめていた。作業中はおのずと身が引き締まった。でも、スタジオのあちらこちらで気ままに過ごす猫の存在や、若林さんの何気ない言葉や行為が、時にその場の雰囲気を和らげた。

例えば、大きな銅板に型紙を用いながらハトメ抜きで刻印している時のこと。若林さんは僕を呼んで「ほら、銅板に自分の顔が映るでしょ。これ、いやですね。」だとか。昼食を終えて事務室で何をするわけでもなく煙草を噴かしていると、若林さんが鋳物でできた蠅の作品をそっとテーブルの上に。羽を持ち上げるとそこは灰皿になっていた。若林さんは動揺する僕を見て何も言わずニヤリ。娘さんのために描いた折りたたみ式の紙芝居を見て懐かしむ様子を見せたこともあった。そして、以前のスタッフが描いた作業風景の漫画を見つけた時には、過酷な現場だったにも関わらず、笑いながらその時のことを話してくれた。

でも、若林さんが発する言葉の端々に切迫している感じが見受けられたり、時々、疲れた様子を見せることもあった。今にして思えば、病が若林さんの体を蝕み始めていたのかもしれない。若林さんの指先は徐々に荒れはじめ、気付けば爪がボロボロになっていた。「最近、細かい作業ができなくて困る。」と若林さんは嘆いていたけれど、それでも白手袋をしながら繊細な作業をこなしていた。そして、豊田市美術館での個展についてスタッフに何度か「これが美術館での最後の個展になるでしょう。」とも言っていた。そんな発言をしたのも、これまでにない体調の変化を感じてのことだったのかもしれない。倉庫で裸のまま重ねられていた『Valleys』についても、マネージャーに「どこかに収蔵、設置できればよいのだけれど。」と伝えながら、一方でそれができなければ破棄する旨も伝えていたように思う。

当時のスタジオは、思考をめぐらすために必要なもの以外、余計なものはないように思えた。スタジオで寝泊まりもしていた若林さんの生活も慎ましく見えた。でも、それは努めてというより、それでよい、充分といった感じだった。僕にはそれが、若林さんが物事に対して真摯に向き合うための必要な条件であるようにも思えた。

朝、スタジオに行くと、すでに作業をしている若林さんの姿があることが多かった。そして、僕がその日の作業を終えた後も、若林さんはひとりで作業を続けているようだった。僕が制作助手に就く以前のことは分からないけれど、若林さんにとってそれが普通のことであり、日常でもあるかのようだった。日々、繰り返しの中で、淡々と進められる作業。休息があるとすれば、それは作業あるいは労働と同居しているようだった。

作業中に受けた指示が絵画的なことに思えたり、若林さんの行う作業が描くことと重なって映ることもあった。僕は、若林さんがさまざまなことに思考をめぐらす中で、絵画や描くことにも触れながら、そうした思考が束になることで、若林さんを彫刻家たらしめているのかもしれないと思うようになった。

制作助手として就いた期間は8ヶ月と短かったけれど、スタジオで若林さんから学んだことや、そこで考えたこと、忘れられないことは多い。その中でもスタジオでの最後の日のことは、強い印象として今でも僕の中に残っている。

その日も作業場には放送大学のラジオ放送が流れていた。いつもと変わらなかった。夕方、スタジオでの最後の作業を終え、身支度を整えた後、僕はこれまでのお礼と挨拶を若林さんにして玄関へ。と、そこでスタジオの鍵を返していないことに気付いた。僕は再び、作業を続けている若林さんのところへ。そして、鍵を手渡そうと声を掛けた。作業中の眼光が鋭く厳しい表情の若林さんが振り向くと思いきや、その表情は笑顔だった。でも、その笑顔はこれまでに僕が見た若林さんの笑顔のどれとも違っていた。彫刻と無邪気に戯れながら、対話に夢中になっているような、楽しげで、嬉しそうに、きらきら輝く、そんな笑顔。まるで少年のようだった。

僕がその時見た若林さんは、彫刻家あるいは何かとしての若林奮ではなく、出会うことのなかった、無垢で、少年の心を持ち合わせたかのような、もうひとりの若林奮、その人だったのかもしれない。そして、その笑顔はスタジオで気ままに過ごす猫の愛くるしさにどこか重なっても見えた。

『若林 奮 仕事場の人 DRAWING 1955-2003』 / 展覧会カタログ / 多摩美術大学美術館 / 2013年