Masaki Kawada Web

本という「中間」

ここ最近、本の周辺にいることもあって、どことなく本のことについてもの思いにふけることが多くなったと感じるのだけど、僕の性格上、きっと別のことに興味を抱くようになったらあまり本のことついて考えないだろうな、なんて思ったりする。
ただそう言いつつも、僕にとって本はとても身近なもののひとつだし、どこに行くにも持ち歩いていることを考えれば、僕は本好きの部類に入るのかもしれない。
でも、もっとよく考えてみれば、僕は本を読んでいながらも別のことをしていることが多い。

例えば、本を読んでいるつもりが気がついてみるとまったく関係のないことを思い浮かべていたり、ページをめくるときの音や紙の感触、インクのかすれとか、そういったことに注意を向けていたりするのだから、それは読むこということからはほど遠い、むしろ風景を眺めたりすることに近いんじゃないかと思う。
でも、ときどき読むということから遠く離れていく中で、ふと読むことの実感が湧いてきたりもする。

思うに、本を読むことの周辺を含めて、それはとてもプライベートなことだから、著者が表現したことに寄り添うことも目を背けることも読者に委ねられている。いつどこで読もうがそれぞれだし、しばらく読まずに置いておくのもよし。しおりを挿む、ページを折り返し何かを書き込む、あるいは、お気に入りのページを切り抜いてしまうことだって許されている。そして、そういう風に気ままにできるのも、はじめから本というものの中にその気ままさが含まれているからだと思う。

僕も本の周辺に、正確に言えば本づくりに片足を入れているから、あまりこういうことを書いて本が粗末に扱われるのも困るけれど、でも書店にずっと置かれたままいずれ僕のもとに戻ってくるよりは、どうであれ見ず知らずの人の手に渡り、それぞれにプライベートな関係を紡ぎだしてくれたほうが本来の姿かなとも思う。それが本を読むということとはかけ離れていたとしても僕は大歓迎だ。
なぜなら、本が本であるためには読者との対話を待たなければいけないのだから。

『美術手帖』 / 1月号 Vol.56 No.843 / 2004年 / p.232