Masaki Kawada Web

私的に

かわだ新書『アートする美術』にまつわる話を、著者からの発言で、いや、美術作家として、それとも、いち読者としての感想、質問・・・・・。何だかいろいろな意見が出てきていっこうにまとまりそうにないので、とりあえず『アートする美術』とは何か?という質問に対して『アートする美術』に関係のある方々にそれぞれの立場から回答を寄せて頂きました。以下、それら回答を順次紹介しながら『アートする美術』について考えていこうと思います。 では、まずは著者からの回答です。

私は著者として『アートする美術』に関わったのですが、その立場から考えると『アートする美術』は、読み物であり書物ということになります。このようにはっきりと断言してしまうと誤解が生じるかもしれませんが、文章を執筆するにあたって私は文章を読むということや読み物として『アートする美術』があることを前提としていました。ですから、同書は手に取って読むことができる美術作品であると謳っていながらも、それは読むことにおいて、あるいは、私の立場からすれば書くことにおいてそれが機能しているかぎり、それは美術としてではなく、書物として語られる必要があります。また、『アートする美術』が美術からのアプローチであったとしても、読み手からすれば、それは読み物であり書物であることには変わりがないのですから、もし美術として捉える必要があるならば、新たな案内人が必要になるだろうと思われます。よって、私にとって『アートする美術』とは読み物であり書物であります。

なるほど。しかし、この回答に全てを集約させてしまうわけにも、また、それを話題の中心に据えながら話を進めていくわけにもいきませんので、続けて別の回答を紹介しようと思います。 では、美術作家からの回答です。どうぞ。

さて、『アートする美術』を何と名づけたらよいか考えてみたのですが、最終的に〈美術作品〉と名づけるのがよいだろうという結論に達しました。そのような結論に達したひとつに、『アートする美術』は「手に取って読むことができる〈美術作品〉」として制作され発表されているということが挙げられます。そのように送りだされている以上、その時点で『アートする美術』は〈美術作品〉と呼ぶことができるでしょう。また、『アートする美術』は手に取って読むことができるのですから、その側面からすると〈本〉として捉えたほうが適当ともいえるのですが、しかし〈本〉という形体は仮の姿というべきもので、それは状況によっていかようにでも変化しうるものとも言えるのではないでしょうか。別の言い方をすれば、〈本〉という形体は〈美術作品〉として提示する際に一時的に採用された形体で、さして重要な要素ではない、いや、重要ではあるけれども本質的な要素ではないということです。要するに『アートする美術』に書かれた文章や『アートする美術』それ自体は、それが置かれた状況によって、その都度、別の様相をもって現われるということであり、その変化そのものが美術的なことでもあります。ですから、当然のようにその変化は美術の営みとして現われるものであり、決して〈本の営み〉として現われるものではありません。『アートする美術』は〈本の形体〉をとりながらも、あくまで〈美術作品〉であり〈美術の営み〉の内に現われるべきものなのです。

どうやら著者と美術作家とでは『アートする美術』の捉え方がだいぶ異なるようです。一方は書物として、もう一方は美術作品として捉えているのですが、このような意見の差はそれぞれの立場が異なる以上、当然のことでもあるでしょう。けれども、このように対照的な回答が寄せられたというのは興味深い事だとも言えます。もし『アートする美術』が著者と美術作家にほぼ同一の印象を与えるものとしてあるとすれば、このような差はなかったのではないでしょうか。もし、仮に『アートする美術』が美術作品としての印象をお互いに与えていたとすれば、それぞれ美術作品として扱うことを前提として、それぞれの立場から回答が寄せられたでしょうし、その差もここに紹介したものとは別のものになったことでしょう。
あっ、ちょっと話がすぎましたね。このように司会者があまり私見を述べてはいけません。あくまで皆様から寄せられた回答を中心に話題を進めなければいけないのですから。ということで、続いて読者からの回答が寄せられていますので、それを紹介します。
それでは、どうぞ。

正直なところよくわかりません。はじめのうちはこういう本があるんだぁ、といった感じだったのですが、『アートする美術』のもっている雰囲気というか、『アートする美術』と一緒に置いてあったものとか、そういうものを見ていくにつれて、これは単なる本ではないと気付きはじめました。でも、こういうものもアートだと言われればそうなのかと思うくらいで、これがアートなのか正直なところよくわかりません。新しく出版した本ですと言われればそうとも思えるし。だから、手に取って読んだときに何か思うくらいで、これがアートかどうかは特に気にしていません。むしろ、本好きの私としては、もっと身近なものとしてあったらよかったです。読みたいときにいつでもあるような、でも、そうなるとアートじゃくて本になっちゃうのかしら?やっぱりよくわかりません。こういうあいまいな回答ってあまりよくないのかもしれませんけど。

いやぁ、正直な回答だと思います。私も正直なところ『アートする美術』の全てを理解しているわけでもありませんし、わからないと思うところは多々あります。ですから、このような正直にわからないという回答を寄せて頂くとどこかで安心感を得てしまうのですが、でも、どこかで何かはっきりとしたものを求めてもいて・・・・・、それが何かと言われるとちょっと・・・・・。
おっと、このような感傷的なことを言ってはいけません。司会者がこんなことでは・・・・・。私の回答はとりあえず後回しにして、では、続いてまた別の回答が寄せられていますので、それを紹介しようと思います。どうぞ。

僕のようないち傍観者からすると、『アートする美術』は見た目が本そのものですから、例えば美術の側からすれば、それはいわゆるアーティスト・ブックとも言い切れない、何か判然としないというか、リアルすぎてリアルを越えてしまったという、美術の作品として本というものをシュミレートしたにも関わらず、それを追及したためにまさに本そのものになってしまったというところがあると思うのですね。一方、本というものを中心に考えたとき、それも似たようなことが言えると思うのですね。美術の作品としてつくられたものがまさに本としてしかないにも関わらず、例えば書店に並んでいる本と比べるとそれはニセ物や紛い物に見えてしまうと思うのです。新書というものに限って言えば、書店で販売されているものとはその内容や構成が随分と異なりますからね。ですから『アートする美術』は新書としては完全にはシュミレートされていないわけです。でも、本としての要素は十分すぎるほどある。そこが書店で販売されている本と一線を引く要素になっていると思うのです。そうなると『アートする美術』というものは、美術の作品でもなく、本でもないということが言えるのではないでしょうか。

美術の作品でもなく本でもないとすれば『アートする美術』は何になるのでしょう。それは新たな呼び名が必要だということになるのでしょうか。これは先の著者と美術作家の回答を・・・・・、えっ、なんですか?ちょっとまっ・・・・・。

つまりこういうことも言えると思うんだよ。「~でもなく~でもない」ということは、それを裏返せば「~でもあるし~でもある」と。で、そう考えると『アートする美術』は美術作品でもあり書籍でもあるいうことになりはしないかい?僕には『アートする美術』がそのように裏返ってしまう構造を持っていると思うけどね。つまり、そのような裏返ってしまう印象を僕に与えるのは、『アートする美術』がそれを享受する側の人にその位置づけや価値を委ねているからだと思うんだよ。でも、それは十人いれば十の位置づけや価値があるということでも、それぞれ各人にひとつずつの位置づけや価値を委ねているということでもなくて、つまり、個人の中にも十の意見があってもいいということだと思うんだ。だから、「~ではない」という判断を下したとしても、どこかで、いや、それと対抗するように「~である」という判断があってもいいということなんだ。で、実はそれら数ある「~ではない」「~である」というものが同列の上にあるからこそ、そういう両義的、多義的な判断ができるのではないかと思っているんだ。でも、言葉として表すことにおいては、「~ではない」「~である」という判断に、その都度、優劣をつけているとは思うけど。誰も同時には話せないからね。

そうですか。でも・・・・・。

あと、僕が気になるのは、美術作品かどうかということよりも、それが美術なのかということ、さらに言えば、美術と呼ぶ以前のことだと思っているんだ。そう簡単に美術と名づけてしまっていいものだろうかと。確かに「そういうことは前提であって、あらかじめ解消されていなければいけない。問題はその後にある」と言う人もいるだろうけれど、僕にはどうもそれははじめから逃げ道を用意しているように思えて仕方がない。だから、話が進まなければそこでしばらくは留まっていればいいと思うんだよ。つまり、美術と名づける前で立ち止まるって事だ。判断がつかなければ、それをどのように受け止めるかということに注意を払うべきだと思うけどね。新たな名を与えるべきか、それとも美術として積極的に呼んでもいいものなのか。美術と言われているから美術として受け止めて、同じ名で呼んでしまうのはちょっと安易すぎないかと思うんだ。でも、そうなると一筋縄ではいかないことは確かなことでもあって、それに送り手側である作家たちが、どう僕たちに提示するのかにもよると思うしね。つまり、送り手側が美術として提示した時、それは美術として、その範囲において見るべきものという送り手側からの指定があるわけだけれども、でも、僕たち受け手側はその指定を無視することもできるわけだし、それを美術と呼ぶ以前のものとして受け止めることだってできると思うんだ。決してそういう風に受け止める事がいいということではないけれど、むしろ、それが何であるのか、美術であれば、美術とは何であるのかということを確かなものにするために、安易に美術と呼ぶことを控えてもよいだろうということなんだ。安易に美術と呼んでしまうことは、美術をより不明瞭なものへと推し進めてしまう結果になるんじゃないだろうか。どうだろう、こういう回答は?ところで、司会者の回答はあるのかい?

えぇ、私からの回答はもちろんあります。でも、私の回答の全てではないにしろ、既にその一部を紹介したのですからそれでよいのではないでしょうか。それに『アートする美術』とは何か?ということへの回答は、この紙面の前後、あるいは、どこかで発せられながらも、このように読まれることがないだろう回答を含めたそれらが、『アートする美術』とは何か?ということへの回答としてひと括りにされたときに見えるその様や、あるいは、それら回答の重なり、相入れなさに、もっと言えば、この文章『あくまで私的に』が掲載されているこの本そのものに見て取ることができると考えていますから。

『Infans』 / No.9 / 2003年 / pp.80-83