Masaki Kawada Web

オールド/ニュー準備室 vol.3

僕はこれまでに機会さえあれば何かしらの媒体に文章を発表してきましたが、それら文章は数多くのボツ原稿、未発表、未収録の原稿の上に成り立っています。

他の作家がどうなのかは知るよしもありませんが、僕の場合に限って言えば、発表された文章はその元となった原稿(第一稿)とはまったく別のものになることが多くあります。
ですから、捉えようによってはそれら第一稿を新たに発表しても問題はないと思うのですが、やはり、詰めが甘いというか、単なるメモ程度のものでしかないもの事実ですから、今もって、それら第一稿やボツ原稿、未発表の原稿などを発表することは控えています。

しかし、今回は「公開制作」ということもありますので、「アートする美術」の執筆に費やした約1年の間に山積したボツ原稿、未発表、未収録の原稿の一部をここで公開してみようと思います。

今回、公開する文章が読み物としての、また、作品としての強度があるとは思いませんが、しかし、そのような文章にはある種の魅力があるのも事実で(しかし、それは必ずしも僕以外の読者にとってということではなく)、文章を書く以外のことにおいても、何かしらの示唆を得るものとしてあります。

また、それら文章は読まれることを前提に書かれているとはいえ、結果として、読むものとしては取るに足らない、また、未整理で読まれることを拒否しているような印象を抱くものでしょうから、読者の方々は無理をして読むこともないだろうとも思います。

つまり、読むものとして取るに足らない、また、未整理で読まれることを拒否しているような印象を抱いたのであれば、そのように接していただければよいということです。
書き手である僕も、以下、公開する文章を通読することにおいて何かしらの示唆を得ながらも、そのような現われ自体の中から何かしらの示唆を得ていることも往々にしてあるのですから。

では、以下に公開して、今回は終ろうと思います。


タイトル未定(2002年1月18日執筆)

「そうねぇ。」

「この会話でもそうじゃない。あなたと私の間にある距離は随分と縮まったように思うけど、でも、重なった分けじゃないじゃない。それは、結局、理解の限界を見たようでもあるのね。」

「そういう限界って、昨日見た映画にもあったのかな。」

「あったと思うわよ。」

「それは何処にあったの?」

「というか、映画そのものね。映画に限らず全てのものに理解の限界感じるのよ。昨日見た映画のシーンに限って言えば、車窓から見る流れていく風景は明らかに何処かの風景と分かるじゃない、それに何処かの風景っていうよりも、風景ってことがわかるでしょ。街を通りすぎる人たちも何処の人なのかエキストラなのか、たまたま撮影された人たちかもしれないけれど、街を通りすぎる人たちってことがわかるでしょ。でも、そこまでなのよ。あの人たちも知らないし、風景も実際には見たことがない。でも、ああいう人たちがいたり、風景があることはわかるじゃない。そういう理解の限界とそこから始まる理解の可能性が見えてくるじゃない。それは、あの映画のどこってことじゃなくて、映画そのものがそういう理解の限界と可能性を見せているものだと思うし、それは他のジャンルにも言えることだと思うのよ。私、映画の評論家じゃないし、詳しいことは言えないけれど、でも、映画を見ていると、そういうふうに思うのよ。明らかに似ている、私が知っている言葉、風景、文化、演技をしているのね。でも、そこまでなのよ、わかるのは。それ以上、そこからは見えてこないわ。むしろ、私と映画の距離で見えてくるものでそれを補えるのよ。映画そのものが演技していると言ってもいいのかもしれないわ。そして、それを見ている人たちを演技へと誘っているようにも見えるのよ。その誘いはとても魅力的なことだと私は思うの。私たちって、映画を見ていると時、その中に入っていくじゃない、それって役者自体の演技もあるし、監督が作り上げた世界、演技の中に入っていく瞬間だと思うのね。だって、結局は白いスクリーンに光があたっているだけなのよ。でも、あの光の粒に私たちが入っていくわけけじゃない。役者だったり風景だってわかっても、それも光の粒でしかないわけでしょ。スクリーンの裏側は真っ暗で何も映ってないのよ。私たちはその裏側にいくんじゃなくて、スクリーンのその薄っぺらい厚みの中に奥行きを見るわけじゃない。そして、そこにストーリーなりを見て取るんでしょ。自分が見ていること、演技していることを忘れてね。映画の中にに入っていくのよ。でも映画が終って、一度真っ暗になると、映画の中から離れて帰ってくるじゃない。その時、私、映画の中に入っていたんだなぁって思うのよ。さっきまで見入っていた映画はもう、映っていなくて、単に白いスクリーンになっているわけでしょ。それは夢を見ていたかのような感覚なのよ。思い返すしかない。それに、映画を見ていたときの距離とはまた別の距離が見えてくるじゃない。ただ目の前に白い幕があるんだから。映画に見入るときって、きっと私が映画を見入るためにそういう演技をしていたんだと思うのよ。でなかったら、単に光の粒としか見ないわよ。ストーリーもわからないでしょうしね。でも、ストーリーを読むことができるじゃない。それは映画の中に見入る演技をしているからなのよ。あっそう、今ふと思ったんだけど、実は映画を見るってあのフィクションの中に入っていくことなんだけど、それとは逆に、こちらの側、ノンフィクションの方にも引きずり込んでいるのかもしれないわね。だって、実際にスクリーンの上に投映されているってことは、フィクションじゃないものね。それはノンフィクションよね。でも、映画を見るときって明らかにそのノンフィクションの部分を見ているんだけれも、そうじゃない、フィクションの部分を見ていこうとするじゃない。それは、音響でもそう思うの。役者が話すその声が実際に私の耳に届くのはフィクションじゃないでしょ。でも、その声のもとはフィクションじゃない。私の知らないところで録音されたものでしょ。私たちはそのフィクションの声に聞き入るために演技をしている。当然、スクリーンに映っている映像もそうね。それを見入るための演技を私たちはしている。その演技は実際にやっているんだから、ノンフィクションなんだけど、でもフィクションでもあるのよ。映画自体はフィクションじゃない、それを見るために私たちはノンフィクションで演技をするけど、映画というフィクションを見るためにノンフィクションに変化させる。映画も私たちに見せるためにノンフィクションの方へ近寄る。フィクションの演技をしながらね。お互いに近寄っていくのよ。なんだかそう思えてきたわ。捩れているのよ。お互いが近寄ったその空間が。時間もね。だから、こうやって話しているようには捉えきれないのよ。整理して話すしかない。その時、どちらかを基準に、通常はノンフィクションの方ね、を基準にその距離を測っていくんだから、映画が投映されていたスクリーンとの距離や記憶との距離だったりを測り直すんだと思うのね。フィードバックしてくるものと今の時間なりを合成してもう一度再現して測ろうとするんじゃないかしら。もう、その再現は完全には無理だとしてもね。また話がずれちゃうけど、洋画とかって字幕が入ってくるじゃない、ああいうのって、もし字幕がなかったら他の部分でそのストーリーを理解するために補うと思うのよ。役者の動きだったたり、音だったり、風景を見て読み取ろうとすると思うのね。そういう時って、さっき言っていた言葉以外の理解、距離からくる理解があると思うのね。字幕があればそれ以上の理解が得られるとは思うけど、字幕では捉えきれない理解が始めからあって、それは、気付かないうちに私たちはやっているのかもしれないと思うのよ。映画を見るための演技をね。字幕ばっかり見ていたら映画を見たことにならないでしょ。基本的に私たち日本人のための補助的な役割なんだから。でも、それを読むことで映画の理解も深まるってことでしょ。映画の中にはさっき言っていた言葉の理解と距離から来る理解が同時にやって来るのよ。わかる?それは実際に読んでいるということと見いていると言うことを往復していることでもあるのよ。演技していることと演技をしていないこと、フィクションとノンフィクションの往復でもあるのね。実際に字幕を読んでいるときは、ノンフィクションの出来事として、映っている映像や音もノンフィクションの出来事として見ているのよ。でも、すかさず私たちはフィクションへ、演技へ向かうのよ。だから邦画を見ているときってそういう感覚にはなりづらいと思うのね。映画の中に字幕がないんだから。そういう字幕を見るときの往復は映画が終ったときも起こっていると思うのね。映画が終ったときって映画を見ていた時の奥行き、距離とはまた別の奥行き、距離が見えてくると思うの。それは、映画を見ていた時の奥行きがあちら側、スクリーンの中だとしたら、もう一方はこちら側の、スクリーンから手前の空間、奥行きなのね。それははっきり見えるものとしてあるわけじゃない。メジャーで測ることもできるわ。私とスクリーンとの間にある距離ね。でも、その距離って、同時に測ることができないのよ。映画を見入っている時はこちら側の距離は測れないし、映画が終ってしまえば、見ることをやめてしまえば映画の奥行きじゃ測ることができない。こちら側の距離を見ることはできるけれどね。でも、さっき言ったように、映画と私たちの間の空間に実際はあるわけじゃない。見ている出来事がね。それは思い返すしかないわけじゃない。だから、私の場合、スクリーンと私の間の空間、距離を見ていた出来事にしようとするのよ。もう一度、見てみたいもの。その時、メジャーで測れる距離じゃなくなるときだと思うの。演技の空間って言ってもいいわ。その空間、距離が見えるものとしてあったら、見る人の意志じゃ変えようがないじゃない。私と私が見ているそれとの間にある距離が絶対的なものになってしまうのね。それは、近いとか遠いとかじゃなくて、それとは別の空間、距離の把握なのよ。演技は映画であれ、あなたであれ、それに近寄るための行為なわけでしょ。それはその空間、距離を知ることでもあるから、それは見えないものじゃなくて見えるものとしてあるはずなのよ。それはお互いがあってのことなんだけど、なくても、自分だけでも構わずの演技をすることができるでしょ。映画だったら、それを見るために演技をする、見入った状態でもあるわね。演技しているときはそのことに気付いていないのよ。だから演技自体は見ることができない。でも、演技をすることで会話に参加もできるし、映画に見入ることもできる。別の言い方をしたら、鏡に写った私を見ながら鏡自体を見ている私もいるのね。演技しながらしていない私もいる。その二重性自体が私だと思うの。」

「あぁ、そう。」

『オールド/ニュー準備室 2002年8月24日号 vol.3』 / かわだ新書プロジェクトホームページ / 2002年