Masaki Kawada Web

オールド/ニュー準備室 vol.1

さて、本日(8月10日)より「オールド/ニュー準備室」と題してウエブ上で公開制作を行っていきますが、まずはじめに、なぜこのように「公開制作」を行うことにしたのかについて説明をしましょう。

「オールド/ニュー準備室」は、「かわだ新書「アートする美術」の意図を別の視点から援用する」というテーマのもと企画されています。
既にプレスリリース等をご覧になった方はご存知かと思いますが、かわだ新書「アートする美術」、および、「かわだ新書プロジェクト」は、美術作家の書くテキスト/文章を作品の説明・補足として捉えるのではなく、それ自体を「美術作品」に造形し、捉え直すということを基本して展開しています。

ですから、そのような考えを援用する 「オールド/ニュー準備室」とは、「作家が書くテキスト/文書を「美術作品」として捉え直し造形する」ことと同様に、「作家が作品を制作している現場・状況さえも「公開制作」というひとつの「美術作品」として捉え直し造形する」という試みになります。
それはまた、「美術作品/公開制作」に造形するという意図がある以上、作家が実際に制作している作品、および、その制作現場・状況の公開を基本にしながらも、それらを「オールド/ニュー準備室」の素材として扱い「公開制作」という作品に仕立て直し公開するということです。

私は、 かわだ新書「アートする美術」のまえがきでこのように書きました。

「美術作家の書く文章、そう呼ばれてしまうことは仕方のないことですが、しかし、そこにはまた別の営みがあります。美術作家が書く文章、美術作品とは呼ぶことができない文章、別の表現、言葉。むしろ、それら文章は美術のために書かれたというよりも、遠く離れたところから美術を眺めるための、美術のためだけではない、別の目的を持った文章ということです。
ここに書き下ろされた文章は、美術に寄り添いながらも、美術以外へ向けて、ただ言葉としてあります。そして、そのような文章で構成された本書は、著者である私によって名づけられ、ここにあります。
しかし、本書はそのように名づけられながらも、無名のまま読者に届けられてもいます。なぜなら、本書をどう名づけるのかは著者の義務であり、同時に、本書を読む、読者の自由でもあるのですから。」

(かわだ新書「アートする美術」まえがきより)

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「名なし」2012年

「オールド/ニュー準備室」は 「公開制作」というもうひとつの美術作品として河田政樹によって名づけられていますが、同時に、それは無名でもあります。
なぜなら、それは鑑賞者によって名づけられることなしには、私がいかに「美術作品/公開制作」と叫んだところで、いっこうにそう呼ばれることのない、「無名」であることに変わりがないからです。

さて、随分と前置きが長くなってしまいましたが、「オールド/ニュー準備室」を展開するにあたって、私は「Documents-old/new-」のための作品制作の現場・状況の記録写真を撮影してきました。

文章の合間に挿入している写真がそれになりますが、特に「河田政樹の作品制作現場・状況の記録写真」と断りがないかぎり、なんの変哲もない写真です。
言うなれば、それらは無数にある「名なしの写真」の中の一枚になりますが、しかし、そのような記録写真「名なし」 は、時には別の角度から作家によって捉え直され、再構成されて作品として提示されることもあります。

例をあげるとすれば、下の写真「名なし」になります。
そこに写っている被写体は「カバーのためのマケット(仮)」と仮タイトルを付けられながらも、未だ放置されているものになります。そして、その放置されている状況を記録した写真が下の「名なし」になります。
今後の展開のひとつとして、この「名なし」を含めた複数の記録写真と「カバーのためのマケット(仮)」を合わせて作品を制作するという構想があります。当然、それは「カバーのためのマケット(仮)」自体にも何かしらの手を加えることでもあり、そして、記録写真「名なし」も別の文脈に置き換えていくことでもあります。
しかし、そのように書きながらも、途中でその制作を断してしまうかもしれません。あるいは、全てなかったこととして破棄してしまうかもしれません。 作品制作の途中では、そのような予定変更は多々起きることでもあり、完成したと思われる作品であっても、再度、見直すことで未完成の作品として公開を断念することも多々あることです。

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「名なし」2012年

では最後に、ここにあげた記録写真「名なし」とは別の記録写真「名なし」を公開して、今回は終ろうと思います。

もうひとつの「名なし」は、一連の記録写真の撮影の合間に撮影されたものになります。
そして、それは 制作現場・状況の記録写真を撮影するという目的の上で撮影されたにも関わらず、他の記録写真「名なし」とは少しその趣が異なっています。
それは記録写真を撮影しながらもそれとは別の目的、方向に向かってシャッターが切られた、私の考えでは、そのような状況を「作品を制作することへ向かった時」と捉えているのですが、 今回も制作現場・状況を撮影するという目的の上でカメラのシャッターを切りながらも、そのような変化があったからこそ、その写真は撮影されたと思われます。

しかし、上記文末の「その写真は撮影されたと思われます」という表現は、なんとも他人事のように聞こえるかもしれませんが、そのような表現になってしまうのには、その時の状況を客観的に、そして詳細に説明することがとても難しいことでもあるからです。

なぜなら、その写真は半ば偶然に撮影されたもの(ほとんどの場合、写真は撮影者の期待を裏切るだろうから)でもあり、また、そのような撮影中に起きた変化は、単純に「気分の転換を含めてそうなった」「制作現場・状況を撮影することに飽きた」という、理由にもならない回答も含まれているように思えるからです。
そして、それは個人的なことを含んでいるがゆえに、他人に理解を求めることは困難なことであり、しかも説明しても仕方のないこととも思えてきます。 ですから、 説明できる部分はあるにせよ、説明できない部分を多く含んでいる、そして、その状況を説明したところで、説明とはほど遠い「語り」になってしまうこということが考えられ、むしろ、そのような「語り」をすることの方が、よりその状況や変化のについて「説明」することになるのではないかと考えています。

では、最後に、そのような変化によって、記録写真の撮影の合間に撮影された一枚の写真を公開して、今回は終ろうと思います。
それでは、また。

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「名なし」2012年

もうひとつの記録写真「名なし」へ

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「名なし」2012年

『オールド/ニュー準備室 2002年8月10日号 vol.1』 / かわだ新書プロジェクトホームページ / 2002年