Masaki Kawada Web

描かれた言葉

僕は今、ここに書かれた言葉、まさに「僕は今、ここに書かれた言葉・・・・・」と共に、それに続く言葉の連続から逃れることができない。まさに袋小路に追い込まれてしまったかのようだ。読むことから遠ざかることができない。そして、これから書かれるであろう言葉の連続は、常に読まれた後、事後的に、僕の前に現れる。それは、まるでまぶたの裏側に映し出された言葉の連続を紙面に映しだしているかのようだ。

テクストを書き、それを読むということ。なんとも当たり前のことなのだけれども、しかし、僕にはその行為がなんともねじれて映る。テクストを書き、読む、その行為以前に、もう一つの行為、現れがある。それはこのテクストを読む以前にこのテクストを、いや、このテクスト以前のテクストを読んでいる読者、僕という最初の読者の存在現れであり、同時に僕はいつでも二番目の読者にならざるを得ない。

最初の読者は密閉された部屋の中で、見られることのない言葉を、テクストを読んでいる。目の前にある紙面に書かれる以前に、網膜のその手前、別のスクリーンに映し出された、言葉の連続、テクスト。いや、むしろ網膜のずっと奥の方、限りなく遠くて近い場所に映し出されていると言ったほうが良いかもしれない。焦点さえも合うことのないそのスクリーンに映し出された言葉の連続、テクストを、僕は目の前にある紙面に書く。そして、瞬時にそれは書かれたことに、意味を帯びてくる。まさに言葉の連続として、テクストとして、もう一度、読まれるために僕の前に現れる。そして、テクストを書くこの行為自体、僕を二重化してしまう。そして、テクスト自体も。

て kっsと、てくうsと、いや、てくすっろ、いや、託すと、いや、テクスト、書くことの、変換の不自由。書かれる以前のテクストが、この手kスつ、いや、テクストを解体する。ここに書かれているテクストは、テクスト以前のテクストの変容として、なかば強引に書かれているがゆえに、いつでもテクスト以前のテクストに脅かされている。簿kの、いや、このような間違いさえも、変換の間違いとしてではなく、テクスト以前のテクストとして、僕が最初に出会う言葉の連なりだ。このまrちk、いや、この間違いは「このまrちk、いや、この間違いは」が幾重にも変容し重なり、順不同のじょうたアイ、いや、状態で、僕の前に現れる。僕以外の、最初の読者しか見ることのない空間にだ。そして、ここに書かれているテクストに意味があるとすれば、それはここに書かれている言葉の向こう側、背後にあるのではなく、むしろ、この言葉のこちら側、読み手の、網膜の手前にある。ここにかあkれた、いや、ここに書かれた言葉の連続は、僕たちにそのテクスト以前のテクストを思い出させる。まさに、その不可視の厚みとして。いや、もはや奥行きという厚みとは言えないもかもしれっば、いや、しれない。そこに見えるのは、単に「この言葉」と刻まれているに過ぎない。むしろ、その手前、僕とテクストとの間にある視覚的な厚み、距離が、裏返り、ゆがみ、切り裂かれ、変容し、僕の内側へとその厚みだけ距離がある。そして、その原初的な現れ。僕はその距離、現れを見るとき、最初の読者の存在に気付かされる、と同時にそれが引き離されることのない僕であることにも気付かされる。最初の読者は一人称的で、あまりにも二人称的、三人称的だ。僕というひとりの統合された主体の中に、いくつもの主体、そして最初の読者がいる。それはテクスト以前のテクストと同様に限りなく遠くて近い人称、主体でもある。

限りなく遠くて近い読者言葉の連続テクスト

しかし、テクスト以前のテクストがいかに間違いだらけで支離滅裂であろうとも、それを間違いと呼ぶには早すぎる。そもそもそれは読まれるものとしてある。そして、その延長線上に、ここに書かれた言葉の連続、テクストがある。もし、それを間違いと語らなければならないときがあるとすれば、それはまさにこのテクストが書かれたとき、外部化されたときである。
果たして、僕たちは最初の読者が読んでいるそれを間違いとして語ることが可能なのだろうか。しかも、僕たちはこのように言葉の連続、テクストを書くとき、当然のように間違う。それは単に文字の間違いであるときあれば、文章上の間違いもあるだろう。

しかし、この紙面に書かれた、最初の読者が読んだその原初的な現れを間違いと語らなければならない時があるとすれば(それはごく当たり前のことではあるのだけれども)僕たちは、この紙面に書かれたこととしてしか見ることができない。それを間違いと語るためには、この紙面に書かれた言葉の連続、テクストでしか成しえない。別の言い方をすれば、最初の読者が読むその現れは、間違いというその言葉でしか書き示すことができない正しさの現れとも言えるだろう。
間違いが間違いとして語られるとき、それは最初の読者が読んでいるそれが外部化する時、まさに僕が今、このように書いているその時である。

僕は今、最初の読者が読んだその現れをこの紙面に書いている。そして、紙面に書かれた言葉の連続、テクストを読み、訂正し、再び書き連ねる。最初の読者が読んだその現れを、この紙面に書くことによって、言葉の連続、テクストとして、そして、別の正しさを伴った、間違いとしてしか語ることができない現れとして見る。そして、僕はその現れを見る時、それをまさに正しく読まれるものとして書き直さずにはいられない。
別の正しさを伴った、間違いとしてしか読むことができない、この言葉の連続、テクスト。幾度も訂正され、編集され、最初の読者が読んだそれからは似付かない程、姿形は変貌し、限りなく遠いテクストへ、しかし、それは限りなく近いものとして現れる。

僕たちが今、読んでいるこの言葉の連続、テクストは、それ以前の言葉の連続、テクストの変容、そして、別の正しさを伴った間違いとしての現れを正しく読まれるものとして書かれたものなのだけれども、しかし、そこには明らかに、その余剰として、変容以前のテクストが見え隠れしている。正しさや間違いというベールを隠れ蓑に、最初の読者が読んだそれはある。そして、この紙面に正しく読まれるものとして書かれた言葉の連続、テクストは、数あるうちの一つの現れでしかない。だから、ここに書かれた言葉の連続、テクストは、機会さえあれば(それすら必要ないのかもしれないけれども)編集され、別のテクストへと変容することもありうる。

重要なのは、ここに書かれた言葉の連続、テクストの現れよりも、それ以前の言葉の連続、テクストの現れの方だ。なぜなら、その幾度も訂正、編集するその営み自体、幾度通りもあるだろう営み一部でしかないのであり、おのずとその結果であるこの言葉の連続、テクストも、その幾通りもあるうちの一つの結果でしかないからだ。
最初の読者が読むその現れの際限のない変容、繰り返し、不規則なパターン。そして、その仮の結果でしかない現れ。言葉の連続、テクスト。

ところで、なぜ最初の読者はその現れを読まなければならないのだろうか。果たして読む必要などあるのだろうか。そして、なぜそれは現れるのか。

僕は、テクストを書くために机に向かい、ペンを持ち、紙面に言葉を連ねる。そして、書かれた言葉の連続を読む。そして、僕は気付かされる。ここに書かれた言葉の連続、テクストがすでに読まれていることを、別の正しさを伴った間違いだらけで支離滅裂な現れであることを、そして、最初の読者の存在に。
紙面に書かれたその言葉の連続、テクストは、最初の読者が読む言葉の連続、テクストとは、あまりにもかけ離れているように僕には映る。そして、紙面に書かれたその現れを読むとき、その別の正しさを伴った間違いを、正しく読まれるものとして、書き直さずにはいられない。

それは一見すると、紙面に書くということ、そして、その現れは、直線的な連続とはほど遠いところへと変容するものと読者には映るかもしれないが、むしろ、それはそこに書かれた言葉の連続テクストとはかけ離れたしかし限りなく近い言葉の連続テクストであり、そして、それを知ることの一端としてある

最初の読者が読むその現れは、僕が紙面に書こうとしたとき、すでに書かれることの予想として読まれている。そして、そこには相容れない断裂、正しさと間違いの混乱、がある。だからこそ、僕はこの紙面に書かれたこの現れに戸惑い、覆い隠そうとする。
しかし、このように紙面に書かなくとも、僕たちは声にならない声を発し、文字にならない文字を書いているのも事実だ。続ければ、外部化することを前提にしなくとも、空虚な空間であろうと、書くという意識が僕たちに働いたとき、最初の読者は、密閉された空間に映しだされたその現れを読んでいる。そして、その現れが紙面に書かれようとも、書かれず仕舞いで終ろうとも、最初の読者にとってはほとんど関係がない。むしろ、書こうとする(実際に書かなくとも)その意識、仕草の方が重要だ。その意識、仕草の上に、最初の読者はその姿を現し、テクスト以前のテクストを読む。それは、読まれることを前提としてではなく、書かれることを前提としている。そして、最初の読者は読むことの現れであると同時に、書かれることの前提として現れるがゆえ、そこには先天的に欠如している機能がある。
それは、前提としている機能、すなわち、書くという機能行為である。言い換えれば、それは書くことの不可能性であり、そして、それは同時に読まないことの不可能性でもある。最初の読者には、書くという機能が始めから欠如している。

このように、読まれるものとしてテクストを書くとき、最初の読者はその現れ、テクスト前テクストを、まさに正しく読まれるものとして、この紙面に書くことができない。というよりも、書くことがない。それは始めから書くことを知らないかのように、書くという可能性が先天的に欠如している。
書くという行為が欠如し、書かれることを前提として最初の読者とテクスト前テクストが現れている限り、最初の読者は読んだそれを書く者、すなわち、僕というもう一人の読者であり書き手に委ねなければいけない。
もし、その前提なしに紙面に書くのであれば、それは限りなく遠くて近いものではなく、別のもの、そして、そもそも正しく読まれるものとしての可能性がそこにはない。間違いとしての正しさを持ちあわせることもない。勿論、それは別の正しさを伴った間違いとしての現れではないのだから、僕はそれを改めて書き直す必要にも迫られない。

繰り返すことになるが、最初の読者が読むそれは、書かれることを前提として現れていながらも、それは別の正しさを伴った、間違いだらけで支離滅裂なものである限り、それを書いたところで、テクストでありながらテクストとは程遠いもの、限りなく遠くて近いものとして現れる。
仮に、それをそのまま書いたとしても、正しく読まれるものとして、ここに書かれている言葉の連続、テクストとしては現れない。それは書くということからほど遠い描くことにより近い。だからこそ、僕たちはその原初的なその現れを読み、描くことに寄り添いながら紙面にそれを書き、そして、その結果を編集する。

最初の読者に先天的にある、書くことの不可能性。そして、そこに現れる言葉の連続、テクスト。僕たちはその現れを読み、見る時 、否応無しに書くことの不可能性を、書かないことの不可能性へと滑らせざるを得ない。言い換えれば、僕たちは、その現れをあまりにも正確で正しさを伴った間違いの現れとして受け止めるがために、それが添削することを目的としてはいなくとも書かずにはいられないのだ。

もし、そのような欲求から逃れたいと感じる時があるとすれば、もはや、それは忘却しかあり得ないだろう。しかし、それはテクストを書くことの放棄でしかあり得ない。忘却の上ではテクストは書かれることがない。なぜなら、忘却をするということは、最初の読者の現れと、そこに現れた言葉の連続の存在すら無視することでもあるからだ。だからこそ、テクストを書くことに否応なく向き合わざるを得ない時、最初の読者に出会い、そして、そこに現れる亀裂、書くことの可能性と書かないことの不可能性の狭間を彷徨い、書くことへ、紙面の中へと滑り落ちていくのだ。

言葉の連続、テクストを書くということはこの二重の(不)可能性のなかで戸惑い、困惑し、裏切られ、指示されることだ。その現れがいかに表層的で、いかようにも編集が可能だとしても、そもそもその現れには意味も、内容もない。それはそれ以前の現れにある。それは今、僕たちが読んでいるこの言葉の連続、テクストが切り刻まれ、捨てられ、貼り直され、新たに書き直されようとも、それは一時的な結果にしか過ぎないということでもある。
事実、この本の執筆のために、僕は自主発行したテクスト集『ノート』を再度読み、切り刻み、貼り直し、新たに書き加え、編集している。だからといって『ノート』の原初的な現れが失われたわけでない。それは変容したにすぎない。

しかし、一方で僕はこのような原初的な現れが、実は複写でしかありえないことも(まさに変容以前の変容として)感じている。それは最初の読者に読まれる前にすでに読まれているということだ。
もはやそこでは、このテクストの原形ではあり得ないのだけれども、しかし、そうでない限り、最初の読者が読むそれは、始めからその胎児を宿していたことになる。言い換えれば、最初の読者が読むその現れは、それ以前に書かれたものを読まれなければ現れないということだ。最初の読者が読むそれの現れ、テクスト以前のテクストが、いかにこの紙面に書かれたテクストの原形であったとしても、それすら編集され現れている。
いわば、僕は無数に散らばる言葉を複写し、それらを一度、無秩序なまま記憶し、最初の読者が、その無秩序に保存されたいくつもの言葉の中から任意に断片を読み取り、そして、それを僕に委ねることで、書くことの可能性へと滑らせているにすぎない。

当然といえば当然なのだけれども、ここでの問題は、僕の中にいかに豊富な言葉が蓄積されていたとしても、それ以上の言葉を自らが作り出すことができないことだ。あるのはそれを加工し、編集することのみにすぎない。仮に新たにつくられた言葉があったとしても、それは、その元の言葉を加工した結果にすぎず、そこには、新たに、という言葉は似付かわしい。この言い方、余りにも今日的過ぎるかもしれないが、僕の関心はその振る舞いにはない。むしろ、始めからそうであったことを知ることにある。今日的であろうとするのではなくそうであったことを知ること。そして、そのような関心の延長線上に、美術との関わりもある。

しかし、そのように書くことへの関心を深めていくと、僕は今日までいかにして言葉を複写し、そして、その複写にはミスがなかったのだろうかという疑問へ向かってしまう。
相手が「あ」と発音したとき、僕は「あ」と発音しているのだろうか。そして、そこには正確な複写が行われているのだろうか。もしかしたら「あ」ではない「ア」であるかもしれないし、「a」かもしれない。
その確認は、僕個人だけでは無理であろうし、仮に人との関わりの中で確認作業が行われたとしても、最終的に相手の感覚、反応によってしか確認ができないのであれば、僕は自身の声の正否を結局、自身に委ねるしかなく、その正否は相対化されることなく、どこまでも予想の域を出ることがないだろう。そして、そうであるならば、正確な複写はミスでもあり、同時に不正確な複写は正確でもあるということが可能だろう。それは複写という営みの中に否応なく含まざるを得ない、避けることができない障害とも言え、そのミスのおかげで、僕は似て非なるもの、限りなく遠くて近い言葉の連続、テキストを書くことができるのかもしれないと考えている。

間違いだらけで支離滅裂な、正確な複写ミスの連続、言葉、テクスト。

もし、そうであるならば、ここに書かれているテクストがいかに正しく読まれるように書かれていたとしても、それは依然、間違いだらけで支離滅裂な、複写ミスの言葉の連続、テクストでしかない。しかし、同時にそれは正しく読まれるものとしてもある。
そして、このように言葉の連続、テクストを書くということは、そのような運動体としての言葉の連続、テクストがあることに向かうことであり、そして、始めからそうであったことを知ることでもある。

始めからそうであったことを知ること。

それは、最初の読者が読むその原初的な現れが、書こうとした仕草の後に、事後的に伝えられることを、そして、書こうとしたその仕草さえあれば現れるということを知ることでもあり、このように紙面に言葉を書かなくても、最初の読者はそれを読んでいることを知ることでもある。僕たちは、このように紙面に書くことを目的としなくても、その現れに立ち会うことができる。書くことよりも書こうとしたその仕草がより重要だ。書くということは描くことに寄り添いながら、ただ外部化することにすぎない。
そして、僕はそのような原初的な現れに出会い、書くことの魅惑に誘われ、描くことに寄り添いながら、最後にこんな一文を書き記していた。

「ここにかれた言葉、テクストは既に存在し、そして既に読まれている。」

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.87-100