Masaki Kawada Web

本当の話

先日、この本のために書いた原稿を読み直してみた。
自分で書いておきながら、正直、よくわからない。しかも読みづらい。
まぁ、まとまった文章を書くことに気負いがあったのだろうと自分をなだめつつ、読み進んでみる。けれども、いっこうに内容がわからない。
僕は何を考えていたのだろうか。思い出すことさえ困難になる。
しかし、自分で書いた文章がよくわからないとはどういうことだ。自分が書いたものであれば、自身がその全責任を負って理解するのが当然だ。しかも、自分にわからないで他人にどう伝わるというのだ。もし、今までの作品の全てを僕が全く理解していなかったらどうなる。責任逃れも甚だしいではないか。
しかし、理解とはなんだ?
僕は自分の作品を理解している、と思ってきた。けれども、それがまったくの勘違いだとしたらどうなるのだろうか。僕は人の前で堂々と理解している素振りをしていたということになる。仮に僕が勘違いをしているとすれば、それは正さなければいけないだろうし、どこかに正解があるということになる。
でも、それを探したところでどうなる。そんな正解も間違いや誤解と背中合わせだろうし、そうであれば、正解を探し当てたと思っても間違いなんてこともある。その逆もある。僕は探偵ではない。
本当のはなし、美術なんてフィクションにすぎない。
だから、僕は正解なんて探すつもりはない。
でも、どこかで探しているだろう、本当の話。
そういえば、ソフィ・カルが書いた「本当の話」という本があったなぁ。今度、読んでみよう。「ダブル・ブラインド」という映画は見たんだけどなぁ。 彼女は現実と虚構の行き来をテーマにしているんだろうけれど、僕にとって、本や映画の中にかかれたものが本当の話かどうかなんて、まったく興味の対象外。それよりも、そういう出来事がいかにして僕たちのところに届くのかに興味がいってしまう。そういう配達が本当の話かどうかということ。
ところで、役者たちは僕たちに何を届けてくれるのだろうか。
あの演技は本当の話?
僕たちは、役者の演技を見るために、僕たちも同時に演技をしていると思うときがある。役者の演技を見ているときに限らず、会話しているときやこうやって文章を書いているときも。その時々の場面によって、演技のチャンネルを変えていく。演技を見るための演技、会話をするための演技、文章を書くための演技、作品を作るための演技・・・・・。知れば知るほどチャンネルが増えていく。
しかし、そうであれば僕たちは演技の衣でくるまれていることにならないか。そうだとすれば、中身はどこにある? よくよく考えてみると、なんだか空っぽのような気がしてくる。何もないかもしれない。ただ、ぽっかりと穴が開いているだけ。その周りを知識の衣が包んでいる。
でも、それを剥がしたらどうなる。
そんなことで会話ができるのか。
相手は自分とは違うフィールドを持っているぞ。
違う衣を羽織っていたらどうなる。
共通項はあるのか。
扉を開け。
だけれども、気付いてみれば扉なんて始めからないのだから開きようがない。
誰か僕を切り刻め。
それが駄目なら自らのナイフで自身を傷つけろ。
それでも駄目なら他人を巻き込め。
僕は作家の衣を被った自虐的犯罪者なのかもしれない。
ところで、かつて音もなく美しい果てしなく広がる氷原に、不完全も不確実もない透明な宮殿をつくった哲学者がいた。でも、彼はそこには住めないことに気がついて、ザラザラした大地に向かった。
美術でもってそういう回転ができるのか。
僕は今、どこに立っている。
美術は大地か、それとも宮殿か。
やらなければいけないことは、ザラザラの大地の上に立つことでも、透明な宮殿を建てることでもないかもしれない。
そうであれば何をすればいい。
何もやらなければいい。
全てを忘れてしまえ。
そして、全てをすればいい。
何だか思考が意味もなく拡散する。
どうやら僕は癒されたいようだ。
薬を必要としている。
ファルマコン。
僕は何度となく文章を書くことに癒されてきたことか。
そして、僕は言葉を書くことで自身を傷つけてもいる。
僕は現代の日本の美術に癒されてきたか。それとも、犯されたのか。
いやいや、両方ともない。僕は関係のないところで眺めていたに過ぎない。
無感傷。
無感情。
無関心。
でも、本当に美術などできるのだろうか?
面白ければいいではないか!
しかし、面白いものなんていくらでもある。僕は美術なんかよりそっちに行く。
誰も他人の趣味など興味はない。
当然、僕の作品もその内にある。
けれども、僕はそんな趣味的な作品に興奮もする。
趣味も悪くはない。が、他人は必要としていない。
それは美術にも必要がないということ。
僕は必要とされているのか。
それとも僕が必要としているのか。
そんな渦中で中心にもなりたい。
どこか革命家にあこがれる。
書物を読め。
学習しろ。
けれども僕たちは偏狭的知的活動が何をもたらすのかを知っている。
僕たちには何ができる。
何もする必要はない。
ただ見ていればそれでいい。
沈黙でもって押しつぶせ!
あるいは言葉でもって切り刻め!
しかしながら、悪名高き存在に学ぶべきところは多い。
僕たちは負けを認めなければいけない。
ある種のテロリズムは、美術なんかよりもずば抜けた想像力を見せつける。
僕たちはいかに大きな声で叫ぼうとも、そこには決して到達できない。
暴力的で魅惑に満ちた想像力。
美術はテロリズム足りえるか?
無抵抗の暴力。
美術なんて必要としない大多数の無関心。
観衆を必要としない大多数の美術作品。
そこにあればそれでいい。
そこになければそれでいい。
何が変わるわけでもない。
誰かが見ている。
誰も見ちゃいないよ。
目的はなんだ。
目的なんてもうないよ。
困ったものだ。どこまでも言葉が上滑りしていく。
どうやら僕は白痴らしい。
ところで、僕は本当に美術に出会ったことがあるのだろうか。
それが紛い物であったとすればどうなる。
もう別の言葉で呼んだほうがよさそうだ。
きっと美術は別のところにある。
美術と呼び、呼ばれること。
そんな劇中劇にはまっぴらだ。
囲われる前に逃げてしまえ!
境界線で塗りつぶせ!
本当のところ、美術なんて興味がない。
僕は誰のために美術をしているのか。
美術である必要などなにもない。
だから全ては別のもので代用できる。
美術はどこまでも膨張している。
でも、どこかで収縮もしている。
何が美術で何が美術でないのか。
一度、その圏外へ行く必要がある。
代用品でしかない美術。
美術でなくてもいい。
美術でなくてはならない。
反美術。
半美術。
美術。

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.77-86