それでは、美術との関わりですが、関わり方は人それぞれ、千差万別、多種多様です。僕自身、数多くある関わり方の一つとして作家という関わり方を選び、また、それ以外の関わり方もしています。
また、美術と関わるといった場合、僕と美術の間に形作られるものが関わりということになります。そして、作家という関わり方をした場合、僕と作家と美術というそれぞれの繋がりにまた関わりが形作られます。ですから、そのような関わりが縦に横に広がれば広がるほど、より複雑な関わりになっていくわけです。
しかし、それら関わりの善し悪しを判断するためには、それら関わりによってどのような結果がもたらされたのかが語られなければいけません。なぜなら、それら関わりという形作られたものは、ある目的のために使用された数ある手段、方法、関わり方の現れ、結果でしかないからです。それら手段や方法、関わり方はある目的のために適切に使用されればよい関わりが形作られたと言えるでしょうし、適切に使用されなければ悪い関わりが形作られたと言うことができます。別の言い方をすれば、同じ関わり方でも使用方法を間違えれば異なった結果が出てくるということです。
ですから、関わりのみを語ることには意味がありません。結果を語らずして関わりを語るべからず。それら関わりは結果という現れに伴う副次的な話題にすぎません。そして、それは副次的な話題として重要でもあります。
そのような副次的な話題は他にもあります。例えば、作品を売るという行為です。
作家によって、売るということが作品を制作することの目的になっている場合もあるでしょうし、僕のように副次的なこととしてある人もいるでしょう。しかし、売るという行為が副次的な事でしかない場合、その行為は他の行為とすり替えることができます。例えば売らないということもその内の一つでしょうし、他にも多々あるでしょう。優先させられるのは、作品が辿り着く場所、目的地であり、売るという行為はその道程にあるにすぎません。当然のように、作品の向かう場所が変われば売るという行為の意味も変わりますし、その行為自体、別の行為に変わります。
決して売るという行為を軽視しているわけではないのですが、考え方次第では、さして重要なことでもない場合もあるということです。そして、それは関わりと同様に副次的なこととして重要だということです。
矛盾した言い方になってしまいますが、金銭の問題は、美術の作品を中心にして考えていくと、必ずしも重要ではない、本質的ではないこととしてありながらも、無視することはできないこととしてある、ということです。
しかし、そのように言いながらも、売るという行為を始めとして、金銭に関わる行為は作家である以前に、社会的存在として僕たちが生活している以上、無視することはできません。仮に金銭の問題を無視することができる、逃れることができると考える人がいるとすれば、そう語った時点で金銭の問題に触れているということにならないでしょうか。
もし、そのような金銭の問題を含め、あらゆることから関わりがないと感じるときがあるとすれば、それはあらゆることから無視され沈黙を迫られた時でしょう。
しかし、悲しいかな、それでも表現者が表現者としてあろうとするとき、沈黙を沈黙として語らなければならない場面に立たされるのです。(まさにここに書かれた言葉のように!!)
そして、それはまるで美術など既にないかもしれないと、どこか心の奥底で思っていながらも、美術を肯定し、表現者、作家の存在も肯定し、美術と関わるざるを得ないということに似てもいるのです。
(この文章は「美術家という生き方〜制作における「金銭」をめぐって〜」『Infans』no.6、2001年、62〜63頁に掲載されたアンケートの回答を原文とし改編した。)
(注1:村田早苗「営み系─〈予め充たされた世代〉の美術家という生き方」『Infans』No.6、2001年、99頁。)
(注2:白坂ゆり「遠まきの世代 ゼロゼロ・トーキョー/not clear not dark」『美術手帖』2月号、2002年、91頁。)