Masaki Kawada Web

私の印象

先日、仕事の帰り道に突然、親しくしている知人から電話がかかってきた。
彼とはもう随分と会っていないけれど、それでもお互い何かあるときは連絡をとりあっている仲である。その時はちょうどお互い時間が空いていたので、この機会を逃せばまた会うのは随分後のことになるだろうと思い、知人に会う話を持ちかけ、僕がよく行く飲み屋で落ち合うことを約束した。

しばらく飲み屋で待っていると、知人がやってきた。お互い大した挨拶も交わさず、まずはビールを注文。一気に飲み干す。すかさず二杯目のビールを注文。親しい知人といえども、しばらく会っていないと会話するのがどこか気恥ずかしくなるものだ。けれども、それも一時的なもの。会話もしだいに弾みだす。そして、案の定、アルコールがまわってくるとお互い気が張ってくる。さっきの気恥ずかしさは何だったのかと思うくらいに、時間を忘れてお互いのことについて延々と話し込んでしまう。
でも、僕はそんな彼との会話をとても大切にしている。

僕の性分もあってか、作家として美術に関わり過ぎると、何でも美術の切り口でしか見なくなるし、行動もどこかおかしくなる。そんな僕を見て、彼はとりとめのない会話の中に鋭く光る言葉を投げかけてくる。
彼が投げかける言葉を見知らぬ人が聞いたら、なんの反応も示さないだろうし、特別なことを言っているわけでもないから、聞き流す程度のことだろうけれど、その言葉は、時々僕の考えを根底から覆すほどの威力を発揮する。とても冷めた視線というか、思わぬところから飛んでくる彼の言葉。

なぜ、僕が彼の言葉にだけ反応してしまうのかわからないけれど、僕はそんな彼の言葉を耳にするとき、美術という世界にどっぷり浸かることで見失ってしまうことを、彼の言葉に気付かされ、補い、探し出してもいるのだろうと思う。
彼は、その日も僕にそんな言葉を投げかけてきた。当然、僕は動揺する。急に無口にもなる。けれども、彼はそんなことを知ってか知らずか、いっこうに話すペースを緩めることもなく、いつものように僕との会話を楽しんでいた。

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.62-63