Masaki Kawada Web

無駄にして

今日は何もすることがない。こういう日は決まって近くにある公園に行くことにしている。
けれども、公園に行ったからといって何をするわけでもなし、ただベンチに座ってぼおうとしている。休日になれば家族連れで大賑わいになってしまうけれど、平日は僕と同じように暇を持て余している人たちがいるから、僕も遠慮なく暇を玩ぶことにしている。

けれども、これは大きな公園での話。小さい公園だとこうもいかない。
小さな公園に僕だけならいいが、子供連れの親子が遊びに来ていると、ひどく冷たい視線を浴びせられる。まぁ、こんな日中から大の大人がベンチに座っているのだから仕方がない。相手から見れば、年齢不詳、挙動不審の要注意人物だろうから。そういうときは早々と退散。さっさと家路に着く。
しかし、家に帰ってきたからといって、たいしてやることはない。やることがあるとすれば掃除くらい。
仕方がないので部屋の掃除をする。溜まりに溜まったゴミの山が僕をてこずらせる。思わぬ誤算。

けれども、その中から掘り出し物を見つけることもある。そうなればこっちのもの。掃除なんぞはそっちのけで、その掘り出し物に熱中する。大抵、そういう掘り出し物があるときは、それで一日が充実するからいいけれど、質が悪いのは、ただ掃除に明け暮れてしまう羽目になるときだ。
始めからやる気のない掃除をやること。なんともストレスがたまる。なんとか楽しくやりたいものだと、勢いあまって部屋の模様替えを始める。これが間違い。ただでさえ散らかり放題の部屋を模様替えするなど無茶すぎる。当然、すぐに終るはずもない。いっこうに片づく気配なし。あきれ返るのが常。

僕は何をしているんだろう。

そんな思いにふけりながら、だいたい片づけが終るのは深夜になる。けれども、片づけが終ってふと思うのは、僕がこの種の無駄に惜しげもなく時間を費やしてきたということ、そして、むしろ有益なことの中に多くの無駄を見つけてきたということだ。

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.60-61