Masaki Kawada Web

続・それでもアートを買いますか?

どうでしょう、皆さん「本当にアートを買うことができるのかしら?」なんて疑問を抱くことはありませんか。巷にはアートの作品はあふれていますし、作品を買うこと=アートを手に入れることとして了解されていることだと思いますので、当然のこととしてアートを売買していると思います。

作家の立場からすると、作品を売ること=アートを売ること、そして「本当にアートを売ることができるのかしら?」なんて疑問になるのですが、しかし、アートを売ることができるかどうかは後述するとして、作品を売るということが前提にある限り、作品には値段を付けなければいけません。作品を制作し売ることはボランティアではないのですから、市場原理に基づいて値段を付ける必要があります。また、そうである以上、0円以上の値段、価値を設定する必要があります。
しかし、世の中に例外は付き物、アートの世界にも当然、例外はあります。

以前、僕は作品に値段を付けることに疑問を抱いている時期がありました。自分がつくった作品を売ることに対しては疑問を差し挟むことはなかったのですが、いざ作品の値段を決定する段階になると値段が付けられないのです。いや、値段は付けられるけれどもその値段は0円から無限大まで設定できてしまうということでしょうか。付けた値段はどこまでも仮の値段にすぎないわけです。ですから、適切に付けたはずの値段も、不適切な値段になってしまうという、なんとも矛盾したことになってしまうのです。
そのようなことになってしまうのは、僕の考えに問題があるからでしょうし、また、美術の中にも問題があるからだと思うのですが、原因の一つを挙げるとすれば、値段を設定するときの明確な基準が設けられないということが言えるでしょう。

先に市場原理と書きましたが、確かに、そのようなことから値段を設定することもできます。しかし、一方ではその設定基準を無視することもできるわけです。それぞれの作家によって戦略もあるでしょうから、ある平均的な値段があるとしたら、それよりも高くも安くもできますし、また、作家の恣意性によって決めることもできるでしょう。
どちらにしても、そのような値段は設定できる数あるうちの一つにすぎず、値段を設定する際の基準も、数ある内の基準の一つにすぎないということです。
ですから、ある値段に対しては適切な値段、基準であったとしても、すこし離れて見てみれば、その基準は他の適切な基準でもって値段を変更できるのです。

さて、当時、僕は作品に値段を付けることに対して、そのように考えていたのですから、当然、値段を付ける際に悩んでしまいます。そして、そんな渦中に僕の作品を購入したいという方が現れました。これこそ暗中模索といった感がありましたが、僕は悩みに悩んだ末にある決断に達しました。
それは「0円で売る」、要するにタダということです。

しかし、それは僕が勝手に決断したことにすぎないのですから、購入者にとっては寝耳に水、そうやすやすと納得できるはずもありません。それに作品を購入する以上、作品をお金で買うという前提がありますからね。0円では作品を買うことにはならないわけです。
そこから僕の強引な説得が始まります。今、振り返ってみると、作家特有のわがままを押し付けてしまったと、反省するところが無きにしもあらずですが、最終的には、購入者に僕の考えを理解していただき、無事、作品は購入者のところへ届けられることになりました。

しかし、そのように作品を届けることができたにも関わらず、僕の中にはどこかわだかまりが残っていたようで、僕の疑問は値段を付けることから、0円で作品を売ることの決断、そして、本当にアートを売ることができるのだろうかという疑問が芽生えてしまうわけです。

冒頭にも書いたように、作品に値段を付けて売ることは特別なことではありません。そして、僕自身もその一件以後、作品に値段を付けて売り、そして、他の作家の作品も購入しています。決して値段を付けることが解決したわけではありませんし、考えていかなくてはいけないことなのですが、同時に考えていくこととして、作品が他人の手に渡り、そのことによって、アートも他人の手に渡っていくのかどうかということも重要な問題として、僕の中に存在しているということです。

大抵の場合、作品=アートという関係になるのですから、そのような疑問は成り立たないと思うのですが、しかし、僕の中ではその関係が微妙にずれているようで、作家として作品を売る側にいながらも、作品を購入することと、アートを手に入れることは別のことという考えが根本にあるようです。要するに、アート的なもの=作品という捉え方をどこかしているわけです。作品を買うことはけっしてアートを買うことではない、また、作品を売ることはアートを売ることではない。作品といわれているものは、アートへの入り口を設けるものにすぎず、アートはその周辺、もしくは中心に位置しているものだろうと考えるわけです。

思うに、本来、アートを手に入れるには、アートを享受する人がおのおの自分自身でアートについて考えなければ手に入れることができないのではないでしょうか。
そう考えると、作品を買うということはアートに近づくための時に高価な買い物でもあるということができます。また、極端な話になりますが、アートに近づくことに限っていえば、作品を買わなくてもアートに近づく方法はいくらでもあります。アートに近づくための入り口をそれら物や事から見いだせればいいわけですから、別に作品に限ることもないわけです。

しかし、そのようなアートの作品ではないものとアートの作品と呼ばれているものを、同じように呼ぶことができないことも付け加えておかなくてはならないでしょう。
なぜなら、先に書いたことは、アートを享受する僕たちがいかにしてアートを思考することができるかという話であり、作品と呼ばれているものや他の物や事自体の話ではないのですから。

作品と呼ばれているものと他の物や事を比べれば、そこには歴然として差があることは当然のことです。一方はアートを思考するためのアートに近い存在として、また、アートの入り口も設けるものとしてのもの、作品であり、もう一方はアートなんて関係ないこととして、別の目的をもったものとしてつくられ、そこにあります。また、もしかしたら、アートの作品と呼ばれているものたちは、それ自体、アートに変貌する契機とはらんでいるかもしれません。しかし、それはアートの作品と呼ばれているにすぎず、アートでは必ずしも無い・・・・・。

なんとも中途半端で優柔不断な言い方ですが、所詮、作品なんてそんなもの、アートなんてそんなもの、でもあるのです。
そして、もし、そのように作品と呼ばれているもたちがアート的であるにすぎず、単にアートに近い存在、もしくは、入り口を設けているにすぎないとしたら、僕たちはそれらを大きな声で「これはアートです」と断言することができるのでしょうか。
で、いつものように最後の一言。

本当はアートなんて買うことができないのよ。

PS.
でも、作品という代償でしか、アートを買うことができないのも本当の話。

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.40-45