Masaki Kawada Web

自作を解説する

さて、ここでは自分の作品を解説するということになっているのですが、その前に「解説」という語の意味について、読者の皆さんと共有しておいたほうが話を進めやすいので、あらかじめ調べておきたいと思います。

かい─せつ【解説】よくわかるように物事を分析して説明すること。または、その説明。

なるほど。「解説」とはなんぞや、ということが明確になったかと思います。しかし、「解説」の意味の中にも共有しておいたほうがよさそうな語があるので、それらを抜き出して調べようと思います。

もの─ごと【物事】物と事。一切の事柄。事物。

ぶん─せき【分析】(analysis)①ある物事を分解して、それを成立させている成分・要素・側面を明らかにすること。②[化]物質の鑑識・検出、また化学的組成を定性的・定量的に識別すること。③[論]㋑概念の内容を構成する緒徴表を各個に分けて明らかにすること。㋺照明すべき命題から、それを成立させる条件へつぎつぎに遡ってゆく証明の仕方。↔総合。
せつ─めい【説明】①事柄の内容や意味を、よく分かるようにときあかすこと。②(explanation)記述が事実の確認に止まるのに対して、事物が「何故かくあるのか」の根拠を示すもの。科学的研究では、事物を因果法則によって把握すること。

どうでしょうか。このように調べていくと「解説」という語についての理解が深まったのではないかと思います。しかしその反面、より理解を深めていこうとすると語には意味があるのですから、どこまでも辞書と寄り添っていくことになってしまいます。それでは終わりがありません。
随分前のことになりますが、このように「解説」という語の意味を調べ、そこからまた語を抜きだし調べていくことを繰り返したことがあります。先にも書いたように、語には意味があるのですから、どこまでも調べていくことができるわけですが、その時は、どこかで調べることを止めて、「解説」の意味に当てはめたのでしょう。そのメモが手元にありますので参照してみようと思います。

かい─せつ【解説】物と事が不足や不満がなく十分に満足していて、不必要なだけなかったり不完全なところがないように、全ての事の内容、物と事のそうあるべきすじみちが明白で、疑いをはさむ余地がないように、感覚・特に視覚・触覚でとらえ得るものの有様が長さ・幅・高さの三次元において空間を充たしていて、知覚の対象となりうる物質をはじめとして、すみずみまで行き渡るように(社会的存在としての人格を中心に考えた)人が気配や様子から感じとって知ることができる認識や意志などの意識作用が向けられる当のものと、認識し思考する心の働き・思いめぐらすことの認識や意志などの意識作用が向けられる当のもののうち、固有の形体を有していたり、物体が存在しない相当に広がりのある部分ではなく、抽象して事物の一般性をとらえるように実情を調べ出せるもの、一つの体となすものを一つ一つの事物の成立・効力などに必要不可欠な根本的条件にきっぱりと離れさせ、それを成り立たせているいくつかの要素を組み立ててひとつのものにこしらえているものの中で着目する全体の中を分けて考えた内の一つとなる事物の成立・効力などに必要不可欠な根本的条件・事と物の成り立ち・効果を及ぼすことのできる力などに必ず要し欠くことのできないそのものの大本である、ある物事の成立または生起のもととなる事柄のうち、それの直接の原因ではないが、それを制約するもの・あれこれと異なっている物事が持っている特色をもったものの、そんなに多くの世の中の人に事物の内容を理解されていない面を事の内容が明らかで疑う余地のないようにし、意識・思考の対象のうち具象的・空間的でなく抽象的に考えられるもののある形をとって現れているものの中にある事柄・物を成り立たせている物事の内容または本質やある表現に対応し、それによって指示される内容、ある心的状態・過程または性格・志向・意味などに総じて精神的・主体的なものを外面的・感性的形象として表すことに相対する関係にあること、それによって指図されるある形をとって現れているものの中にある事柄・物が満ち足りて、不足・欠点がなく物と事がはっきりするように研究・議論して解決すべき事柄をうまく処理しそれによって指示される内容を疑いをはさむ余地がないようにすること。

これでも「解説」の意味ではありますが、はじめに参照した「解説」の意味とは似ても似つかないものになっています。
ここでは自作を解説することが目的なのでこれ以上「解説」について調べることはしませんが、しかし、僕はそのような現われを見ていると、その現われ自体が作品を解説していく上で避けることができないことに似ているように思えてきます。

確かに、「解説」の意味を調べ、そこから抜き出した語をまた調べていくことで、解説の意味が深まっているように思えますが、しかし、それは意味の横滑りでもあるのではないでしょうか。
辞書を例にするなら、ある語の意味を引きだし、その意味に含まれている語の意味を引きだしていくと系統図のような繋がりができ、一見すると深まっているかのように思えるのですが、しかし、辞書においてはどの語も同列に配置されているわけですから、それはその語が別の語に置き換えられたにすぎず、視覚的にも別ページに移動しただけです。
もし、作品が辞書のようなもので、その意味を調べたり分析したとしても、それは先の例のように横滑りをしているだけだとすれば、それでは作品の表面を転がっているにすぎないでしょう。そして、作品に核心というものがあるとすれば、それでは語ることができないでしょう。むしろ、僕にはその核心というものが語ることができないものとしてあるのではないかとも思えてきます。そして、もしそうであるならば、僕はどこまでもその横滑りを行おうと思うのです。

実際、僕たちは語ることができるものしか語ることができません。しかし、それによって語ることができないことを限定できます。
僕は思うのですが、そのようにして語っていくということは、作品を解説する上で必要不可欠なことではないでしょうか。また、解説するとは、語ることができないことを語るのではなく、語ることができないことを語ることができないこととして提示するということではないでしょうか。
しかしながら、この文章も随分と自作を解説することからずれてしまったようなので、これも横滑りをしているというなのかもしれません。

さて、紙面がそろそろ尽きてしまうので、最後に一言書いて終わりにしようと思います。
このように自作を解説することからは遠く離れてしまいましたが、それでもここに書いた言葉が作品を包むベールの一部をなしているのであれば、遠くの方から、また、作品に直接触れることなく、作品を解説することができるのではないかとも考えています。

(本文で参照した辞書は『広辞苑』第四版、新村出編、岩波書店、1991年。また、例文は筆者が削除した。)

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.32-37