Masaki Kawada Web

写真行脚

写真を撮り始めてどのくらいが経つのだろう。気付けば、新品、中古合わせて所有しているカメラが数台にもなってしまった。僕の中には写真を撮ることと同じように、カメラという機械への偏愛があるようだ。
器用な日本人にとって光学機器という精密なカラクリは、そのような偏愛思考をくすぐるのかもしれない。根っからの日本人気質である僕がカメラに没頭してしまうのもうなずける。しかし、このようなカメラへの偏愛思考は、写真に潜在している能力を見失なわせてしまう。そして、僕も時々その悪い癖が出てしまう。
中古カメラショップに足を運び、ああでもない、こうでもないと独り言をいいながら、何軒も渡り歩く。経済的な面で欲しいと思ったものもいつも買わずじまいなのだが、それでもいつか手に入れたいと思いつつ、ショーウィンドウにへばりつきながら見ている。端から見たら、ちょっとした変わり者である。

ところで、僕がショーウィンドウにへばりついていると、僕ぐらいの年齢(20代後半)よりも年上の男性が、僕と同じようにへばりついているのが目に付く。どこにいってもだいたいそうだと思うけれども、どういうわけか中年の男性が多い。少しお金の余裕ができて、そのお金をカメラにつぎ込もうとでもいうのだろうか。あの人たちが何を考えているのがわからないが、所有欲の矛先がカメラに向かっているのだろうと思う。
先日、そんなカメラ愛好家たちの会話を盗み聞きしていて気になることがあった。
彼らは楽しげに、何々のメーカーのカメラを使うと写りが違うとか、この持ち具合がいいとか、このカメラを持って歩くと気分が違うから写真も良く撮れるとか・・・・・。写真の善し悪しをカメラの善し悪しで、しかも趣味判断で決めている。
なんのことやら、僕もそこに片足を入れているひとりだから、あまり批判めいたことは言えないのだが、冷静に考えてみると、なんだかばかばかしく思えてくる。

確かに、写す対象によって、カメラやレンズを変えることはある。しかし、それは写真を撮る際の技術的な話にすぎない。だから、その人の気分などを反映して写真が良くなるわけでもないし、高価なカメラで撮ったからといって、必ずしも良い写真が撮れるわけではない。当然、安価な使い捨てカメラと何十万とする高価なカメラでは写りが変わるが、それを基準に写真の善し悪しを決めることはできない。それに、カメラの種類によって必然的に出てくる差はあったとしても、どのカメラを使おうとも、撮る人が同じであれば、ほぼ同じ写真が撮れてしまう。
僕は写真の専門家ではないから、これ以上、専門的なことは言えないけれど、少なくとも、カメラの能力に依存しなくてもよい写真は撮れると断言はできる。

先にも書いたように、技術的な面でその都度必要なカメラ、レンズを使い分けることはある。しかし、写真をどう捉えるかによっては、それすら必要としないときもある。超三流のカメラでも十分なときがある。
何をよい写真と捉えるかは、人それぞれ意見が異なると思うが、要は、撮る人がいかにして写真というものを捉えているかであり、それによって必要なカメラや技術的な知識が必要になるということである。知識あるいは技術的なこと、カメラの機械的要素は、たんに写真を撮ることの裏付けにしかならない。
しかし、僕は自身への教訓を含めて思うのだけれども、写真だけに限らず、美術の広範囲なところでも、技術的な要素のみの、あるいは、知的要素が欠如した表現に多く遭遇するのはなぜだろうか。そういう表現があっても構わないのだか、しかし、そればかりが僕たちの目に届いているもの事実である。そして、その背景には、そのような作品を享受する人たちが必ずいる。

「果たして、僕は今、どこに立っているのか?」

と、一度は自らが立っている場所について考えるのも悪くはないだろう。

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.19-20