Masaki Kawada Web

自筆年譜

1973年(昭和48年)(満0歳)

9月19日(水)午後2時25分、東京都国立市の共済病院で河田家の長男として生まれる。父、勉、母、まさみ。現在まで兄弟なし。生まれつき病弱。病院通いが続く。

1974年(昭和49年)(1歳)

国立市の保育園に入園。二足歩行開始。

1975年(昭和50年)(2歳)

国立市から埼玉県入間郡大井町に転居。祖父、政治、祖母、静子と暮らす。(以後、現在まで同じ)転居のため一時、東村山の保育園へ。その後、大井町立亀久保保育園に入園。

1978年(昭和53年)(5歳)

愛犬、おそめ死去。実家の庭に埋葬。

1980年(昭和55年)(7歳)

不慮の事故で左腕を骨折。
3月、卒園。
4月、大井町立大井小学校入学。同時に学童保育に入る。いじめっ子として徒党を組む。後に立場逆転。第1期ねじれ期。

1982年(昭和57年)(9歳)

2日間の登校拒否。
大井スイミングスクールに通い始める。約2年後、突然やめる。

1984年(昭和59年)(11歳)

児童会会長に立候補。見事に落選。
曾祖母、ギン死去。人間のはかなさを知る。

1985年(昭和60年)(12歳)

両親離婚。第2期ねじれ期。

1986年(昭和61年)(13歳)

3月、小学校を卒業。小学校6年間を通して数多くの賞を取る。器用貧乏の始まり。
4月、大井町立大井中学校入学。同時にバスケットボール部入部。

1987年(昭和62年)(14歳)

ビートルズに熱中。ファン倶楽部入会。オタク症候群の芽生え。一種のビートルズ萌え状態。

1989年(平成元年)(16歳)

3月、授業中に羽目を外し卒業式まで廊下掃除。無事、中学校卒業。
4月、埼玉県立新座総合技術高等学校デザイン科入学。

1990年(平成2年)(17歳)

同級の友人に「はっぴいえんど」の存在を知らされる。以後、60年代後半から70年代の音楽に熱中。ちなみに「はっぴいえんど」の存在は大きく、特に美術作家としてテキストを書く上で多くの影響を受ける。
学園祭でギター片手にパフォーマンス。好評を得る。オリジナル曲も発表。時代錯誤のフォーク調。

1991年(平成3年)(18歳)

昨年に続いて、学園祭で演奏。またもや1人。しかし今度はエレキギターだ。しかもジミヘン。最後はギターを破壊して終る。ストレス発散。自己満足。
地元の音楽祭出場。麦わら帽子に下駄の出で立ちでひき語り。審査員には歌よりも服装が印象に残ったのだろう。パフォーマンス賞受賞。

1992年(平成4年)(19歳)

3月、高校卒業。美大に受からず浪人生活が始まる。来年、大学に受からなければ沖縄に行くと友人に話す。何の意味があったのか不明。単なる逃避か。
失恋のため深酒。急性アルコール中毒になり救急車で運ばれる。なぜか救急車の中での記憶が鮮明。以後、何度か救急車で運ばれる。

1993年(平成5年)(20歳)

4月、多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻に入学。沖縄に行かなくて済む。美術の純粋培養開始。

1994年(平成6年)(21歳)

友達ができない。内向的。自閉的。大学、バイト、家の往復になる。単調。しかしこの単調さと孤独感が作品制作に転機をもたらす。絵画学科にいながら期限付きで筆を折る。

1995年(平成7年)(22歳)

6月、『他者/環境、共にある場』と題して高校からの友人、大井武、細川啓人と僕の3人でO.K.Houseの名で、多摩美術大学ホールで展覧会を行う。会期は6月5日(月)〜10日(土)。後日、反省会。

1996年(平成8年)(23歳)

9月、去年に引き続き同メンバー同場所で『移動する中心・場をめぐって』と題し展覧会を行う。ただしユニット名はO.K.hに変更。会期は9月2日(月)〜7日(土)。この展覧会を最後にユニットを解散。解散の原因は僕が勝手にメンバーから降りたこと。相変わらず勝手な行動。メンバー間で嫌な雰囲気になる。

1997年(平成9年)(24歳)

1月、卒業作品の制作中、穿孔性胃潰瘍のため入院。動揺のためか自分の名前と年令を忘れる。記憶なんてそんなもの。記憶はすぐに回復。
3月、多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業。
4月、多摩美美術大学大学院美術研究科絵画専攻入学。神奈川県相模原市で一人暮らし。
5月、食生活の乱れから2度目の入院。

1998年(平成10年)(25歳)

六月、東京、銀座のKey galleryで初個展。詳細は『生まれつつある現在 第二回アート公募'98審査員賞展』6月29日(月)〜7月4日(土)。よくも悪くも、美術作家・河田政樹のすべてがあるように思われる。
10月、『平凡』展、Gallery ART SPACE(東京)、10月20日(火)〜11月1日(日)。実はこの展覧会が初個展になる予定だった。なお、これを機に展覧会ごとのカタログを作り始める。以後、原型を留めないほど改編が繰り返される。

1999年(平成11年)(26歳)

1月、『ひそやかなラディカリズム』展、東京現代美術館、1月15日(金)〜3月28日(日)。出品作家は内藤礼、関口国雄、杉戸洋、高柳恵里、丸山直文、吉田哲也、中沢研、小沢剛と僕。記録ビデオを見ると、なんとも病弱な顔つき。顔面蒼白。以後、作品から物質的傾向が薄れていく。
2月、『日替わり留守番展 Vol.2』、Gallery ART SPACE(東京)、2月2日(火)〜7日(日)。参加メンバーは、大庭香華里、山根勇と僕。やる気があるのかないのかわからない、気だるい雰囲気の漂う展覧会。好評。僕は1週間ギャラリーの壁を修復。問答的境地にいたる。
相模原市内で引っ越し。アトリエ兼住居の3DKの借家。以後、制作場所確保のため展覧会ごとに模様がえを繰り返す。
3月、多摩美術大学大学院美術研究科絵画専攻修了
4月、多摩美術大学油画研究室に副手として就職。
『etc.』5月号 Vol.11にインタビュー掲載。
テキスト「それでもアートを買いますか?」が『etc.』6月号 Vol.12に掲載される。
テキスト「もぬけの殻でこんにちは」が『エルー・アール15』に掲載される。ここで意識したのは内容も去ることながら、読むことについて、つまり、言葉のつながり、音、リズムである。ついでに、いかにしてそれら言葉が読者に届いていくのかも考察。
8月、茨城県水戸市近郊で事故。正面衝突。相手の居眠り運転が原因。むち打ち。後遺症で片頭痛に悩まされる。
11月、『四つ葉のクローバー』展、フタバ画廊(東京)、11月29日(月)〜12月5日(日)。写真、ドローイング、立体物の3点で構成。
12月、アーティスト、山根勇氏との対談。山根氏の個展での関連企画。対談の模様はGallery ART SPACE発行の雑誌『Infans』no.4に掲載。また、同雑誌に「再び訪ねて」というテキストを寄稿する。詩的表現の模索。

2000年(平成12年)(27歳)

1月、『路地を吹き抜け』展、モリスギャラリー(東京)、1月10日(月)〜22日(土)。初めて言葉を作品に使用する。賛否両論。ソリッドな展覧会。
3月、『エル・アール18』にアーティストへのアンケートが掲載される。アンケートは「あなたに残っている「風景」についてお話ください」。
7月、『やどり木、句読点。』展、ギャラリー手(東京)、7月3日(月)〜15日(土)。ギャラリー手プロデュース、美術家・堀浩哉氏キューレション。文庫本をばらしつなぎ合わせたものに絵を描く。期限付きで筆を折って以来の絵画的表現。また、同ギャラリー発行の雑誌『テオリア/THEORIA COOPERATIVE』第Ⅱ期第9号にこれまで書いてきたテキストと書き下ろしのテキスト「破れた空の光をたぐって」が掲載される。
『言葉・言場・言派』展、ギャラリー手(東京)、会期は9月1日(金)1日のみ。出品作家は、石川雷太、富田瑞穂、中山正樹、彦坂尚嘉、堀浩哉と僕。当日、出品作家で座談会を行う。どこか違和感を覚えたので僕は沈黙のパフォーマンス。
11月、『notes』展、ガレリア・ラセン(東京)、11月21日(火)〜12月3日(日)。写真的表現の考察。こうも展覧会ごとに表現が異なるとつかみ所がないと思われるのも否めない。この頃から作品カタログに掲載されていたテキストを独立したテキスト集としてまとめる。テキスト集『ノート』自主発行開始。

2001年(平成13年)(28歳)

1月、『GALERIA RASEN 2001』展、ガレリア・ラセン(東京)、1月7日(火)〜13日(日)。出品作家は、安岐理加、大塚聡、加藤学、金田実、キタガキヨシヒサ、工藤礼二郎、坂田峰夫、塩野雅樹、柴田健治、下向恵子、すがわらきよみ、関口国雄、谷山恭子、千野めぐみ、冨井大裕、中村岳、深井聡一郎、細井篤、光川裕介、諸泉茂、柳井嗣雄、行本詩麻、吉岡滋人、渡辺好明と僕。
2月、『神奈川アートアニュアル2001』展、神奈川県民ホールギャラリー、2月24日(土)〜3月二15日(日)。出品作家は、長沢明、春日聡、仁木智之、飯島浩二、井上尚子、清岡正彦、村上慎二、景山健と僕。写真的表現の全面展開。作品は印画紙に文庫本のページを焼きつけたもの。ただし展示の方法が奇妙だったらしく、ほとんどの人に「準備中ですか?」という問いかけが絶えない。これも賛否両論。
『遺失-拾得法 leave-fine』展、ガレリア・ラセン(東京)、2月27日(火)〜3月11日(日)。出品作家は、関口国雄、前沢知子と僕。ビートルズのジョージ・ハリソン的役割りに徹する。
3月、多摩美術大学油画研究室副手を退職。
4月、『LIFE』展、ART SPACE LIFE(東京)、4月1日(日)〜30日(月)。名刺入れをギャラリーに見立てたポータブルな展覧会。作品は購入した時に包装してあった保護カバーを名刺入れの中に入れただけのもの。同ギャラリーのホームページ上でテキスト「LIFE」を公開。断片的な言葉の羅列。
7月、『Infans』no.6にアンケートの回答が掲載される。アンケートは「美術家という生き方〜制作における「金銭」をめぐって〜」
7月、『sample、あるいは、公開』展、ギャラリーそわか(京都)、7月24日(火)〜8月5日(日)。初の関東以外での展覧会。THE LIBRARY 2001-Exhibition of the book object-関連企画として個展をする。この時期の京都はとても蒸し暑く、僕の展示とは好対照。内容は過渡期。
9月、『気体分子美術展《ビット》vol.2-聖なる分子展-』、東京画廊(東京)、9月3日(月)〜22日(土)。写真家、鈴木理策氏との二人展。アーティストの李禹煥氏と彦坂尚嘉氏の共同企画。東京画廊発行『THEORIA』第Ⅲ期第33号にテキスト「スパイラル」を寄稿。
テキスト集『ノート』は「スパイラル」の収録を最後にその第1期を終了。
TOWN ART GALLERYのインタビューを受ける。
10月、『3/2 rooms』展、GALLERY CAPTION(岐阜)、10月1日(月)〜31日(水)。出品作家は、小川信治、田中偉一郎と僕。
『LIFE MUSEUM(ART SPACE LIFE 開廊一周年記念展)』展、Gallery ART SPACE(東京)、10月16日(火)〜21日(日)。出品作家は、木村恭子、小林真理、朝日奈益代、石原美和子、藤原靖子、村田香、西尾彩、高田千佳子、MAKОTО、関野宏子、坂部奈緒と僕。
ここまでを河田政樹の美術作家としての第一期として勝手に終了させる。同時に潜伏期間突入。以後、発表済みの作品で、展覧会に参加する。

2002年(平成14年)(29歳)

2月、『LIFE MUSEUM in SOWAKA』展、ギャラリーそわか(京都)、2月26日(火)〜3月10日(日)に出品。出品作家は『LIFE MUSEUM(ART SPACE LIFE 開廊一周年記念展)』展出品作家と、小林ゆう、清水克久、岡田一郎、森太三、西山裕希子、三橋遵、手塚愛子、神谷三郎、池田朗子、北直以、扇千花、篠原誠司と僕。
3月、彫刻家、若林奮氏の制作助手を始める。ほぼ同時期に5年間の一人暮らしに区切りをつけ、埼玉の実家に引っ越す。理由は、単に神奈川県相模原市に住んでいる理由がなくなったため。

2002年3月現在

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.119-129