Masaki Kawada Web

もぬけの殻でこんにちは

唐突ですが、僕はこれまでの生活の大半を美術なんて意識することなく生きてきたのかもしれません。むしろ、美術など必要としないところで生きてきたのではないかと思うのです。幼い頃を思い出してみると、ちょうどテレビゲームが流行りだした時で、ほとんど毎日、友達とテレビゲームに明け暮れていましたし、ゲームをしていないときは何か面白い番組がないものかとチャンネルをカチカチと回していたものです。そして、文字嫌い少年だった僕は、小説など読もうとするはずもなく、魅力的な絵やセリフで僕を虜にしてくれたマンガに熱中していたわけです。

今ではマンガを読むことも少なくはなりましたが、それでも僕には本を読む癖がなく、どちらかといえば、ぼおうとしていたり、暇つぶしにテレビをつけて無意味にチャンネルを変えてみたり、 夜は夜で、晩酌をして一人で陽気になっているのです。まぁ、こんな感じですから、敢えて意識しなければ、今まで美術とは無関係な生活を送っていたのだと思います。

けれども、僕は今、美術に関心を持ち、美術とは無関係ではない生活を送っています。そのようになったのも、ちょっとしたきっかけ、もしくは間違いであったかもしれません。(補足しますと、きっかけとは、よくあるたまたま器用であったがために絵がうまく?描けて、先生に褒められて何となく美術に興味を抱いたことで、間違いは、褒められたがために才能もないのに才能があると勘違いして僕ってすごいかもしれないと思ってしまったことです。まぁ、どちらもきっかけであり、勘違いでもあるのですが・・・)もちろん、僕のようなきっかけや間違いをしていない人もいるでしょうから、全く関心のない、関係のない生活を送っている人もいるわけです。僕は、ほとんどの人がそのような生活を送っていると思いますし、たぶん、世間一般、普通に生活していれば、さして美術など意識することなく生きていけると思っています。他に幾らでも、僕たちの生活を豊か?にするものはありますし、楽しいものもたくさんありますから、人生愉快に生きていきたいのであれば、美術である必要はまったくないのです。そして、そのように愉快な人生を送っていれば、美術を欲することなんてほとんどないのです。

美術なんて必要としない大多数の無関心。

それは、美術と無関係ではない生活を送っている僕にとってとても怖いものであり、脅威でもあります。その無関心さは、程度の差はあれ「美術なんてひと蹴り、木端微塵」にしてしまう無抵抗の暴力です。そして、何をしようとも打ち崩していくのです。
もっとも、美術など必要としていないのですから、「美術なんてひと蹴り、木端微塵」にしたところで痛みなど感じるはずもなく、そこに美術があろうとなかろうと関係ないのであり、どちらでもよいのです。(いや、木端微塵にすることさえもしないかもしれませんね。美術なんてやり過ごしてしまうほどに無関心なのですから)
でも、僕はそのような無関心を感じているにもかかわらず、僕の中にもその無抵抗の暴力を持っていることに気づいてしまうのです。そして、そのことにも僕はとても恐怖を感じるのです。僕は僕を傷つけ、もしかしたら殺してしまうかもしれないと。それは、自殺願望?自殺行為?それとも、正直者?
ですから、今、僕は美術に無関係ではない生活を送っているとしても、「そんな生活ひと蹴り、木端微塵」難なく関わらない生活を送ってしまうのではないかと僕は思っています。

でも、これはあくまでも仮定の話ですね。今、僕の生活は美術とは無関係ではなくなっていますし、そこから話していかないと始まりません。僕の中にも無抵抗の暴力を持っていることに気づいたとしてもですよ。いつまでも、関わらない生活のことを話すのは、それはどこか夢見心地です。

それでは、ここからは今、僕がどのように美術に接しているのかを話していこうと思います。

(またもや唐突)困ったことに僕は、美術が何なのかさっぱり分かりません。分からないのですから、何かを手がかりにするしかなく、美術があるだろうところへ出かけたり、いろいろと本を読んでみるのです。そして、自分でも、ものをつくったり、このように文章を書いて探ってみるのです。そうすると、確かに手応えはあるのです。でも、それを頼りに進んでみるものの、結局、最後は美術が何であるのか分からなくなってしまうのです。どこかで、その確かな手応えは不確かなものになってしまうのです。そう、いろいろなところで釣り糸を垂らしてはみるものの、いっこうに魚はかからないのです。魚は泳いでいるようですが、いつまでたっても釣れず仕舞いです。餌が悪いのでしょうか。探りかたが悪いのでしょうか。それとも、もともと 釣りをしている場所が悪いのでしょうか?

こうしてあれやこれや、疑いの目を持ち始めると、だんだん魚を疑いたくなるのです。もしかしたら、「その魚、幻影」ではないのかと。幻影であれば、いくら餌を変えようとも、探りを変えようとも釣れるはずがないのです。まぁ、幻影であるかどうかなんて、釣っている時点では区別のつけようがないのですが、もし、そうであれば釣れない魚を釣っていることになるわけです。

あぁ、何と不条理なんでしょうか。
でも、この不条理劇、どこかで条理劇になっていたりもするのです。だって、釣れると信じて釣りをしている時点で、それは条理劇ですから。そして、釣り上げてしまう人もまま見かけますから、条理劇だろうと、不条理劇だろうと演じきることはできるのです。

僕としては、そのように演じきることも、釣ってみることも別に悪いこととは思わないのですが、釣れないかもしれない魚をいつまでも釣っていても仕方がないと思いますし、演じきるほど夢見心地ではないので、ばかばかしいと思ってしまうのです。そして、そんなことをしているのであれば、自分の中に魚が泳いでいるのかどうか見たほうがよいと思うのです。
それで、僕の中に魚が泳いでいるのかどうかそおっと覗いてみるのですが、空しいかな、泳いでいないのです。

では、いったい何が泳いでいるのでしょうか?

人魚でも泳いでいるのかしら。なんて、何か泳いでいてくれれば慰められるのですが、しいんとしていて、なんの気配を感じません。そう、何も泳いじゃいないのです。僕の池はもぬけの殻なのです。そして、そこに泳ぐのは、悲しいかな、やっぱり釣り上げた魚なのです。釣り上げた魚をぽっかり開いた自身の池に放すことによって、僕はかろうじて美術をしていけるのだ、そうすることでしか美術に関われないのかもしれないと考えています。

でも、ここでひとつ疑問。はたして、その魚は育てることができるのでしょうか。

確かに、魚が育っていけばその池も潤う?ことでしょう。そして、池が潤えばよりいっそう魚も育つ?ことでしょう。でも、僕は釣った魚の育て方なんて知りませんし、育てることなどできません。だいたい、その魚は幻影であるかもしれませんし、本物だとしてもそれは、僕の池で生まれた魚ではないので、大きくなったところでいつまでたっても僕の魚ではないのです。ですから、僕は育てようとは思いません。キャッチ・アンド・リリースです。釣った魚は逃がしてあげる。またどこかを泳いでいてくれればよいのです。(もしくは、食べてしまうのもよいかもしれませんね。お口にあうかどうかわかりませんよ。もしかしたら、おなかをこわしてしまうかもしれませんけど)

どちらにしても、僕は、釣り上げたことがないのですから、魚を釣り上げた喜び?や、池が潤う?ことも知るよしもなく、僕の池はもぬけ殻なのです。

僕の池はもぬけの殻。

でも、僕はそのもぬけの殻の池がとても大切だと思っているのです。別にいじけているわけではないですよ。もぬけの殻であることを望むとまで言うと、誤解を受けるかもしれませんが、そう遠くはありません。確かに、何もないというのは寂しいものです。でも、それが本当ならば、それを受け入れるしかないのです。受け入れることが始りだと思っています。それをしないで潤いを求めるのであれば、それは単なる逃避でしょう。拒絶することはいくらでもできるのです。逃げることだってできるのです。でも、拒絶したところで?逃げたところで?あぁ、あるいは、どうしても拒絶してしまう、逃げてしまうこともあるでしょう。受け入れることなど到底できないことだってあるでしょう。でも、どちらにせよそうすることで自分を守っていくことには変わりがないのです。そして、守ったところで、はじめからその池はもぬけの殻なのですから、いぜん、もぬけの殻なのです。

ですから、守ったところで何が変わるわけでもなく、潤すほどの魚が泳いでいるわけでもないのであれば、つねにもぬけの殻の池から始めようと僕は思うのです。もしかしたら、その池は何も育たない、潤すことなどできない池なのかもしれません。そして、「そんな生活ひと蹴り、木端微塵」にも似て、何をしても、もぬけの殻になってしまうのかもしれません。でも、「そのことを忘れようとするのでもなく、いつまでも付き合っていこうとすること」「独りぼっちで寂しくても、そこに立ち続けていこうとすること」が、僕は大切だと思うのです。

確かに、「いくらそのようにすることが大切だと思っていても、閉じてしまうことから免れられるの?」という問いかけに対して、「ちゃんと免れることができます」とは言い切れないのが正直な答えです。なぜなら、つねに閉じてしまうことの危険性は持っていると思いますし、免れきれないところにもぬけの殻の池はあると思うからです。ですから、一見、閉じているように見えてしまうかもしれません。でも、本当に閉じてしまうのであれば、もぬけの殻の池にいつまでも付き合い、立ち続けることなどできないでしょう。むしろ、もぬけの殻の池さえも閉ざしてしまうと思います。まわりも自身も閉ざして匿名の場所に逃げ込み、そうすることでどこにも開かれず閉ざしてしまうのです。

僕は、もぬけの殻の池がどこかで匿名の場所に化けてしまうかもしれないと感じています。でも、いくらそれが「化けてしまうかもしれない」という、なんともあやふやで不安定なものだとしても、僕はそれを変えていこうとは思いません。(いや、変えていかないというよりも、逃げないというべきか)不安定だからこそ、そこに身を置くことで、閉ざしてしまうことからかろうじて免れることができると思っています。そこがあやふやで不安定な、いつ匿名の場所に化けてもおかしくないとしても、そこに自らをさらしていくこと、いこうとすること。そうすることで、僕は、美術本来の営みをしていくことができると思っています。

さて、最後に、もうすでに、答えているところもあろうかと思いますが、この文章を書くきっかけにもなったLR13号に書かれていた千葉さんの問いかけに答えて終わろうと思います。

LR13号で千葉さんは、「そう意識することなく、自分の身のまわりの狭い場所、日常の限られた地平へと追われ、そういうところへ自らを閉じこめている───とまで言ったら、言いすぎかもしれないが、事態はそれからさほど遠くはないように感じられる。だとしたら、そのことじたいはかなり深刻なことだと僕は思うのだけれども、この作家たちやこれらの作品そのものには深刻感はただよっていない。」そして、「ひそやかでつつましやかでマイナーなのは、結果である。因果関係で言えば、そうなる前、がある。たとえ彼らにとって生まれたときからの常態であっても、状況をやりすごすことはできない、だいいち、やりすごしていたら表現が成り立たないだろう。ならば、どこかで、何かを、諦念しているのだろうか?手放しているのだろうか?それとも?」と言っています。

確かに、「自分の身のまわりの狭い場所、日常の限られた地平へと追われ、そういうところへ自らを閉じこめている」と思われてもしかたがない表現であったかもしれません。でも、そう意識することなく自分の身のまわりの狭い場所、日常の限られた地平へと追われ、そういうところへ自らを閉じこめているのではありません。誤解を恐れずに言うならば、少なからず僕は意識してそうなっているのです。また、「ごく自然にひそやかなのであり、ひそやかであることが地なのであり、さらに、たぶんそれ以外のありかたを知らないということでもある」と思われているようですが、ひそやかであることが地であるわけでも、それ以外のあり方を知らないわけでもありません。知らないことが多くあることは認めるとしても、知っていること、もちろん知らない、分からないということも含めて向き合っているのです。そして、展覧会に引き寄せて言うならば、ひそやかなのは地ではなく、ラディカルであることと隣りあっているのです。それは、ひそやかであることも、ラディカルであることも地なのであり、図でもあるということです。ですから、ひそやかであることでラディカルなのでもなければ、ラディカルであることでひそやかなのでもありません。それらが隣り合っているがゆえに、どうしようもなく引き裂かれてしまっているのです。それゆえに、解体してしまうのですが、それでも、再生していこうとした営みの結果があの展示であり、あの表現なのです。(営みの結果としての展示、表現が、ひそやか、つつましい、ささやか、ごくごく個人的、マイナーといった形容詞を呼び起こさせるものであったのは本当でしょうし、僕としても納得ができるところがありますが、でも、先入観をまったくなくして見ることなどできないとしても、どこか、その先入観を基準として最後まで判断しているとも感じますし、そのような形容詞が出てくるのも、それとは逆の前例を基準として見ているからだと思います。でも、はたしてそれを基準としたところで本当に見ることができるのかというと僕には疑問です。その部分で僕は、納得ができません)
もちろん、「状況をやりすごすことはできない、だいいち、やりすごしていたら表現が成り立たない」というのも、もっともなことなのですが、だからこそ、僕は向き合った結果として、僕という「ここ」を選んだのです。もぬけの殻の池を選んだのです。「自分の身のまわりの狭い場所、日常の限られた地平へと追われ、そういうところへ自らを閉じこめている」と感じるのも、一見、当然のことです。なぜなら、「ここ」というもぬけの殻の池は僕の中にあるものですし、(僕のことだと言い換えてもさしつかえありません)僕が生きている以上、日常とは切り離せないのであれば、僕の中にあるその池も、日常とは切り離せないからです。でも、そこは自らを閉じこめ、癒せるほどやさしくもなければ、箱庭でもない。もぬけの殻の池はオアシスではないのです。

さて、いろいろと失礼な表現があったかもしれませんが、千葉さん、僕はこのように考えているのです。
そうそう、最後に、千葉さんに問いかけ。あの文章のなかで千葉さん自身がどう深刻に感じているのか、その事が明確に書かれているとは僕は思えませんし、書かれないまま展覧会参加者への問いになっていると思うので、どう深刻に感じ、千葉さん自身に現れているのか?聞いてみたいところです。もう、とっくに話していたりして。

では、ここらあたりで、筆を置こうと思います。

1999年7月29日 晴れ

『エル・アール』 / 15号 / 1999年 / pp.56-62