Masaki Kawada Web

私的な事かもしれませんが

私的な事かもしれませんが、アートの歴史を考えれば考えるほど多くのことを背負ってしまいアートをすることが不自由になっていきます。しかしながら、それと同時にそれから自由になりたいとも思うのです。一掃のこと、「アートなんか忘れてしまえ」とも思ってみるのですが、そうしたところで何かが解決するとは思えません。アートから遠ざかり逃げれば逃げるほど、逃げた地平の不自由が近寄ってくるのです。そして、当然のことながらアートに対しては、無責任に、自由になれるのです。それは、自由の履き違えというものです。しかしながら、履き違えた自由でアートをすることも、多くの事を背負ってしまい不自由になりアートという自閉に陥っていくことも、もはやアートの一側面として認知され、アートであることには変わりがないのです。

そのようなこと(前述したことに限らず同じような状況)に直面すると、私はどうしようもなく引き裂かれてしまうのです。どれか一側面に依存すればその綻びを繕うことも可能ですが、どれか一側面ではなく全てに依存する、または、全てに依存しない立場にいると、どうしようもなく引き裂かれてしまうのは否めないのです。しかし、そのようなどうしようもなく引き裂かれてしまう耐え難い地平に否応なく立たされると、アートが何であるのか、いつ、どこでアートになるのかという問いに対する答えが、おぼろげながら見えてくるのです。

追記
その答えとは、問いに対する答えでもありながら問いにもなってしまう、問いでありながら答えでもあるものなのかもしれません。

1998年10月18日

『平凡』 / 展覧会配布物 / Gallery ART SPACE / 1998年