Masaki Kawada Web

アンビエントに

展覧会を見ようと意気揚々とギャラリーに足を運んだはいいけれど、いざ作品を見ようとすると、作品がどこにあるのかわからないということが時々ある。
その作家の作品を何度か見たことがあれば、だいたいどれが作品なのかわかるのだが、聞き覚えのない作家で、作品が置かれている環境に馴染んでいる場合など、どれが作品でどれが作品ではないのか区別がつきにくいものだ。

なぜそういうことが起きてしまうのかについては、いろいろと原因があるだろうけれども、原因のひとつには、その作品が、置かれている環境に対してより消極的なアプローチをしていることが挙げられるだろう。それは、与えられた環境、ギャラリーや美術館の環境をまず全面的に押し出して、作品であることの特質は、その環境のために一歩下がった、控えめな表現に徹しているということでもある。そして、特定の環境にそのような表現がなされている状況において、僕たち観客は作品を見るという意識が働いた時、作品だけではなく、その周りの環境をより注視して見ることになる。作品が置かれた環境の響きを感じ取るといってもよいだろう。

例えば、そのような表現がなされた空間に入ったとしよう。無論、作品を見に来ているのだから、僕たちは作品とそうでないものを区別しようする。けれども、作品が環境と区別されるのではなく、共存するかたちであるとき、また、環境に対してささやかな仕草を残しているとき、その視線はどこまでもさまようことになる。そして、走りすぎる車の音、窓から差し込む光、揺れる影、見知らぬ観客等々、僕たちはそれらと共に作品を享受することになる。 そのような状況のひとつのケースとして、作家が手を下したもの、いわゆる作品といわれるものだが、それが観客に作品として見られなくても構わないという素振りをしている場合がある。それは、作品というひとつの完結したものでありながら、作品が置かれている環境の全てのものと響きが同じ、等しい位置づけをされて提示されていることでもあり、言い換えれば、それらはすべて作家が手を下していなくとも作品の一部として、環境の一部として、並列して僕たちの前にあるということでもある。
だから、そのような場合、作家が手を下したものとそれが置かれた環境すべてが作品ということも可能になる。そして、それは作品と環境との境界をどこまでも設定することが可能ということでもある。

しかし、それでは、その空間にあるもの全てが作品ではないということも可能になってしまう。
それでもなお、そのような作品はそうであっても構わないという素振りをする。
すなわち、普段見ている風景と作家が手を下した作品とを区別するということに意味を見いだしているのではなく、むしろ観客と作品、環境との関係性の中に、またはその全体に意味を見いだそうとしているということだ。

等価に置かれたもの、作品、環境は拡散したまま、そこにあり続ける。そして、そのような環境に身を置いたとき、僕たちには、普段、風景を見るときと同じように、作品を見ることも、目を閉じることも、無視することもそこでは許されている。それは、どれが作品ということではなく、僕たちが見ている風景、環境との関係が作品といってもよいだろう。そのために、作家が手を下したものは、作品ということを大きな声で主張することはない。それは、置かれている環境に対して、限りなく透明なものとしてそこにあり続けるということでもある。

しかし、ここに挙げた作品の在り様は、全ての作品に当てはまるわけでは勿論ない。むしろ、それは少数の表現でしかないだろう。だが、それは静かな流れとして、また、作品との関係を形作るものとして、常に僕たちの足元に横たわっていることも確かなことでもある。
僕たちは今日の騒がしい営みの中で、そのようにあるのかないのか、見えるか見えないかの、視野からこぼれ落ちてしまうだろう静かな流れに日々試され惑わされている。

『アートする美術』(かわだ新書001) / 2002年 / pp.22-24