Masaki Kawada Web

破れた空の光をたぐって

それは突き抜けたところにあるというよりも、まるで目の前にあるかのようです。日々の暮らしに、いや、そこからさえも滑り落ちてしまう、それ。
真実は背後にあるという人がいるかもしれません。けれども、実際、誰がそこにいくことができたのでしょうか。回り込んでしまう表面。背後ではなく、後ろにあるにすぎないただの表面。
向かうべき対象は、力を失い、見ることさえも拒んでいるかのようです。そこに見るのは、ただの空虚な空間。もし、そこに何かを見たというのであれば、それは自分自身の空虚な空間と呼応しているにすぎない幻影です。向かうべき対象も、私も、もはや空虚な空間をかろうじて保持している表面にすぎません。そして、なおも表面から滑り落ちてしまう、それ。

対象がある。私がいる。その間に、カメラがある。シャッターを押すと光がレンズを通り抜けフィルムに焼き付く。写真を撮るとは、ただそのことにすぎません。そして、フィルムに焼き付いた風景が私たちの前に現れるとき、かつて見ていた風景は、ただそのことにすぎない、肉体を失い、時間さえも失ったただの表面として現れます。
私が写真を意識的に撮るようになったのは、ある本に出会ってからです。その本は写真集というより、言葉の、写真はあくまで客観的な事実を伝えているだけにすぎませんでした。言葉が淡々と事実を伝えていたように、写真はその客観的な視線でその対象を捉えていました。私はそれにあらためて写真を見ることになるのですが、不思議なことにそれまで写真に出会っているにもかかわらず、そのような体験をすることなどなかったのです。
それまで私は、写真には見ている風景がそのまま写つるものだと、愚直なまでに信じていました。だから、写真にかつて見た風景を思い重ねることに疑いを持ちませんでした。確かに写真はそのままを、客観的な事実を写すものです。けれども、その客観的なその眼差しは、対象の、肉体のある、時間の厚みを写すというより、むしろ客観的すぎるために、対象の、ただ似ていること、表面をただ写すにすぎません。そして、その眼差しが徹底的に表面を、限りなく表面しか写し込こまないことに、かつて見た風景が、空虚な空間をかろうじて保持しているだけの表面ということに気づかされました。それはまた、私という空虚な空間をかろうじて保持している表面を、シャッターを押したと同時に写し込んでいるかのようでもありました。
一冊の本に出会い、あらためて写真を見、考え、今まで私が撮ってきた写真についてもそう感じたとき、背筋がぞっとしたのを覚えています。けれども、それと同時にある魅惑にもかられました。その魅惑とは、その空虚な空間が到底、埋め尽くすことなどできないと分かりながらも、その空間を埋め尽くさずにはいられない、そうしなければ写真を見ることができない、けれどもそうすることであらたに写真を見ることができるということでした。
以前、私はかつて見た風景を写真に思い重ねていたのですが、今思うと、それは当然のことで、かつて見たその風景を私の中で重ねることでしか写真を見ることができなかったのです。けれども、あらたに写真を見るようになり、以前のようにかつて見た風景を写真に重ねて見ることはあったとしても、けっして重なり合うことはありませんでした。ましてや、その空間を埋めることなどできませんでした。重ねることはできたとしても、合わせることはできないのです。埋めようとすればするほど遠ざかっていくようです。そして、埋めることができないことを知ったとき、魅惑が生じました。写真の表面と写真への視線の狭間に、けっして重なり合うことのないその亀裂から生じた、魅惑。その魅惑、見ることの魅惑は私を写真へと誘います。そして、私は写真に思いをはせるのです。

魅惑への誘い。そして、絶望。

そのように、魅惑に誘われながら私がレンズ越しに見ていた風景への視線は、けれども、けっしてその魅惑への欲望を満たすことができませんでした。その視線はシャッターを押すたびに、まるでシャッター膜に遮られるかのように、ただ表面に、似ていることに遮られてしまうのです。僕は、その遮られてしまう、けっして救われることのない視線のことを考えていると、写真を撮るということが、自殺行為にも似ているように思えてきます。実際、自殺することは、まさに死ぬことなのですが、少なくとも自殺者は(自らが望んでいることでもあるのですから)死ぬことで救われているのかもしれません。その最後の、一回限りの行為が、撮影者がシャッターを押す、その行為に似ているように思われます。シャッターを押すその行為は、連続していながらも、つねに最後の、一回限りの行為だからです。
そして、撮影者は風景への視線が遮られてしまうことがわかっていながらも、自殺者が死へのダイビングをやめられないように、その視線をそらすことも、シャッターを押すことをやめることができないのです。自らを傷つける、その代償としての写真。やめることができない魅惑。
そして、魅惑に誘われ、幾度となくシャッターを押したその視線は、死ぬことのない死へのダイビングでもありました。死ぬことの許されない死へのダイビング。自殺者と撮影者の決定的な違いはそこにあります。前者が、死を望み、死んでいくのとは対照的に、後者は、死を望んでいながらも、死ぬことはないのです。
私は、魅惑と絶望のその狭間で宙吊りなってしまいます。自らが見ているその風景への視線がけっして救われることがないにもかかわらず、その行為から逃れることができないのです。そして、再びその魅惑に誘われ、シャッターを押してしまうのです。

絵を描くこと。それは、もう、どうでもよいくらい古びた行為なのだけれども、写真を撮ることの魅惑に似て、描くことの魅惑がたしかにありました。筆を持ち、画布の上に絵具を置く、その行為が、私にはシャッターを押すその行為を思い出させます。再び、シャッターを押してしまうのと同じように、その魅惑は、描くことへと再び誘うようです。
もう明らかなことなのだけれども、かつて見た風景は、画布の上で重なり合うことはありません。そして、画布に向けられた視線は、救われることはないのです。すでにその表面は、描かれる以前から、ただの表面であるように、いかに描かれようとも、依然、ただの表面であることには変わらないのです。
そして、その表面は、描かれれば描かれるほど、亀裂を生んでいるようにも思えます。肉体を持つことを拒むかのように、その表面は、かつて見た風景とは、似て非なるものに、だからこそ、見ることの魅惑に誘っているかのようです。
依然として変わらないその表面。絵具がのっているだけの、ただの表面。だからこそ、そこに生じる亀裂、魅惑。

そういえば、もう一つの亀裂・魅惑があったのを私は忘れていたようです。絵具の置かれた画布の裏側、光の当たらない、けれどもけっして背後ではないその表面は、描かれている表面と同様に、私を魅惑へと誘います。それは、見ることさえも拒んでいるかのように、それはあくまで表面であり続けています。そして、それゆえに遮られてしまう私の眼差しは、行き場を失い、宙刷りになってしまいます。
しかしながら、その亀裂の狭間に、表面から滑り落ちていくそれを見たのは、私の眼差しが遮られ、行き場をなくしたときでした。

2000年6月19日

『テオリア』 / 第Ⅱ期第9号 / 2000年 / pp.16-18