2006.09.29

蝶が舞う

アーティストであり一人の人が亡くなるということは、多くの思いがそこでは交差する。
それは遺族の思いであり、友人、知人の思いであり、作品を通して故人を知った人たちの思い等々、、、。それらが複雑に交差し、どの糸が大切なのかはそれぞれの立場や状況によって変わってしまう。そして、その糸は遺族の中でも交差する。

残された遺族は、故人を思いながらも、それぞれ自身の歩みを進めなければならない。けれども、故人が残していった多くの品々や作品とともに、それら故人への思いが時として歩むこと自体を踏みとどまらせてしまうこともある。

もちろん遺族の思いやそれぞれの歩みが優先されなければいけない。けれども、もしその周辺にある思いも汲み取ることができるとすれば、それはいかにして可能なのだろうか。
複雑に交差した糸は、ひとつの束になることもあれば、強く引っ張ったために絡まってほどけなくなることもある。そして、時として遺族以外の思いがまとまっていた糸を絡ませてしまうこともある。

けれども、もしひとつの解釈が許されるのであれば、優れた作品が残されている今、ゆっくりでもいいから何かしらの機会に、多くの眼に触れ、さまざまに解釈される時が来たら、と思う。
しかしながら、同時にこのような思いは作品をつくっている僕の、アーティストのエゴだ、とも思ってしまう。

故人や遺族の思いのすべてを他人が察することができない以上、どのように気を遣っていようとも、本人が気づかないところで傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、このように故人や残された作品について書くことが許されることなのだろうか、未だ僕の中では整理がつかない。
もしかしたら、このように書く事が遺族の思いに触れ、糸を絡ませてしまうことになるかもしれない。そして、もしそう考えるのであれば、何も言わず胸の奥にそっとしまっておく、という選択肢もあるだろうと自身に問いかけてもみる。

故人は蝶が好きだった。この季節、道端の草花にも蝶が舞う。
そんな草花のまわりを舞う蝶を見ていると、僕は故人や残された作品を思い出す。そして、それら蝶の舞は、日々の煩雑さの中で半ば無神経に放り出してしまった多くの事を見つめ直す機会も与えている。